会員の輪

2006年

≪Come-Back City≫

鎮目 雅人(昭60経)

本年4月から参加させていただいている鎮目雅人です。日本銀行から神戸大学経済経営研究所に出向となり、初めて神戸に住むこととなりました。この9月にアメリカ・ペンシルバニア州のピッツバーグでの学会に参加して参りましたので、そのときの印象をご報告します。

ピッツバーグと聞くと、何を思い浮かべられますか?訪問前に私が思い浮かべていたのは、鉄鋼の町、工業都市・・・といった印象でした。でも、実際にみたピッツバーグは、町全体が清潔な公園のようなところでした。

ピッツバーグは、アパラチア山脈の西、ミシシッピ川の支流のオハイオ川の上流に位置しています。古くはインディアンとの交易で栄え、2度の世界大戦を通じてアメリカの鉄鋼業の中心都市としての地位を不動のものにしました。その頃のピッツバーグは活気にあふれていましたが、一方でばい煙が充満し、行きかう車は昼でもライトをつけていなければならなかったそうです。第2次大戦直後の市長は「ルネサンス」と名付けた環境対策を熱心に進めたそうです。しかし、その解決は意外なかたちでもたらされました。1970年代以降、アメリカの鉄鋼業はアジア諸国などとの競争に敗れ、衰退の途を辿り、ピッツバーグの製鉄所は次々と閉鎖され、いまでは市内に高炉は1基もないそうです。

鉄鋼業の衰退は、ピッツバーグに澄んだ空を運んできましたが、街は活気を失いました。市の人口は1950年の68万人から2000年には33万人と半分以下に減ってしまいました。町の中心部や工場・倉庫の跡地は荒廃し、治安も悪化したようです。行きがけに偶然空港で一緒になったある学者は、「ピッツバーグの街中は危ないからあまり歩かない方がいいと人に言われた」と話していました。

実際には、現在のピッツバーグは産業の「ルネサンス」を迎えつつあり、ピッツバーグ大学、カーネギー・メロン大学などの研究施設を核として、医療、ロボット、金融産業など、知識集約型の産業が集積しつつあるそうです。中心部では、古いビルが取り壊されて新しいビルの建設が始まっていました。以前の工業地帯の周囲には、おしゃれなレストランが軒を並べ、川沿いの倉庫の跡は、地元の買い物客や観光客で賑わう市場になっていました。

一度広まったイメージを変えていくのは、なかなか難しいようですが、実際には、道を歩いていて怖い思いをしたこともなく、最近の調査では、全米で最も住みやすい町のひとつに挙げられるようになったと聞きました。

ピッツバーグでは、9月初に現職の市長が病気で亡くなり、全米史上最も若い26歳の市長が誕生したばかりです。市民の中には、政治的な業績もなく大学を出て間もない市長の手腕に不安を感じる人もいるようですが、若さを武器に新しい風を吹き込むことを期待する声も聞かれました。神戸とは町の規模も置かれた環境も異なりますが、逆境の中で前向きさを失わず、たくましく生まれ変わろうとするピッツバーグの姿には、神戸と重なるものを覚えました。

倶楽部前から眺めた神戸ルミナリエ(昨年の作品)
今年の開催は12月8日から20日まで

≪西宮に住んでジャズを聴く≫

川口 裕(昭38法)

西宮に住んで26年になります。その前が千里桃山台に6年いましたから、関西に住み着いて、32年になったわけです。もっとも昭和64年(平成元年)から平成5年までの5年間は東京に舞い戻っていましたから、実質27年間の関西住まいということになります。

私は、東京生まれの東京育ち、家内も、もの心ついてからの東京育ちです。その二人が人生の大半を関西で過ごすことになるのですから、わからないものです。

最初に住んだ千里桃山台は、社宅として提供された所でしたから、否応なく入居しました。万博直後のニュータウンは、とても清潔なおしゃれな町で満足していました。
その後の西宮は、なんの縁もゆかりもない所でしたが、たまたまひやかし気味に応募したマンションの、結構倍率の高かった部屋が抽選で当たってしまったのです。当たってみたら、なんとなく手放し難くなって、あわてて資金集めをして購入しました。仮住まいの気持ちでいたのに、こんなに永く住むようになるとは、考えてもいませんでした。

しかし、今では、この阪神間の住環境がすっかり気に入っていて、日本一すばらしい所であると思っているわけです。
海にも山にも近く、緑も豊富で、かつ都会のおしゃれな感覚も味わえるような所は、他にはないでしょう。東京の連中には、瀬戸内海国立公園の中に住んでいる、と言っています。 とりわけ、西宮は、ジャズ好きの私には、ジャズのライブハウスが多い大阪と神戸の中間にあって、どちらにもすぐ行けるという最高の立地条件なのです。

ここで、私とジャズとの出会いみたいなものにも触れてみましょう。
私の父は、大のクラシック音楽好きで、レコードは、SP時代のものも含めて膨大なものでした。私もその影響で、中学生の頃までは、親父のコレクションの中から、好みのレコードを引っぱり出して聴いていました。ところが、すぐ近くに住む叔父(父の弟、塾出身)はジャズファンで、これまたかなりのレコードを収集しており、聴くともなくその音楽は耳に入ってきました。中でも興味をひいたのが、MJQ(モダーン・ジャズ・クァルテット)であり、デイブ・ブルーベック・クァルテットでした。
いずれも、クラシックの香をただよわせて、とても新鮮に感じたものでした。
その後、次第にジャズの本格派と言われるものにのめり込んでいくことになります。

塾に入ってすぐ、同好の志を求めて、KKK(慶應軽音楽鑑賞会)に入会します。とてもユニークな人達が集まっていました。決まった活動としては、信濃町駅前の「珈琲園」なる喫茶店に、ジャズ評論家を招いて、レコードを聴くというものでした。KKKの会長は医学部の牧田清志先生でしたが、牧田先生は、牧 芳雄のペンネームでジャズ評論家としても著名でした。油井正一、いソノてルオの両氏は塾出身の評論家でよくお世話になりましたが、早稲田出身の新進評論家だった大橋巨泉氏も話が面白いので、よく来てもらいました。今では、考えられないことですね。

このKKKは、残念ながら今は廃部になってしまいましたが、OB、OGのお付き合いはずっと続いており、先頃KKJCのご協力を得て行われた鳥羽ジャズツアーもその一環です。
西宮に住んでジャズを聴く。新しい友人も増えて、ミュージシャンにも鍋島直昶先輩をはじめとして沢山の知り合いができて、ますますジャズが楽しくなっています。

≪近況報告≫

宮川 侑子(平18商)

いつの間にか朝晩が涼しくなりました。季節の移り変わりを感じます。カレンダーを見ると、入社して半年が経とうとしているのが分かるのですが、時間が経つのが早すぎて、あまり実感がありません。年をおうごとに、そして忙しく動き回るにつれ、時間が塊になって流れていくようです。時間は平等に与えられているといいますが、本当にそうなのでしょうか。

社会人になり、営業を始めて約4ヶ月になります。その間様々な素敵な出会いがありました。神戸慶應倶楽部の皆様、起業したばかりの社長、過 去に海外で寿司職人をしていた人、社長兼高校の先生等々…本当に、よくこんな娘を相手に話してくださるなと感じ、日々感謝の連続です。これは営業の醍醐味ですね!勉強して、少しでもお役に立てる人にならなければと思っています。

私は精神論について書いた本が好きで、よく読みます。本の影響力は絶大です。心の持ちようが変わります。人との出会いに偶然はなく、人生全てが必然、必要、ベストなのだと思うようになりました。そう思うことで、いつも穏やかでいられるようになります。

営業は毎日数字、順位が出ます。数字が出来ていれば良く、出来なければ悪いという単純明快な評価。そんな中でもあせらず、マイペースに出来るのはそのおかげなのかもしれません。ただ、仕事は目標をもってやっています。また、そうするべきだと思っています。

近況はこんな感じです。仕事のことばかりになってしまいましたね…プライベートもそれなりに頑張っています(^^;)

神戸慶應倶楽部の皆様には優しく迎えていただいて本当に感謝しています。今後ともよろしくお願いいたします。

≪皆さんの投稿をお待ちしています。≫

編集部

このコーナー、は新しく入会された方の自己紹介やご無沙汰会員の近況報告等を紹介する交流広場です。
今月は残念ながら空席となりました。
普段、会の行事に出席できない方も誌面に登場して参加してください。
皆さんの投稿をお待ちしています。

≪3回目の神戸暮らし≫

安川 清一郎(昭54法)

会社勤めを始め26年。内外を転々としておりますが、当地には縁があり、昨年より3回目の神戸暮らしをしております。

1回目は昭和54年から2年間、会社(海運)の西宮独身寮から元町海岸通の支店に通勤していました。貰う給料は貯金などせず、だいたい全部使い切ってしまう勢いで、だいたい夜は元町と三宮のガード下辺りで一杯飲み、そのまま東門筋界隈に流れ、お休みの日は寮の仲間とボートを漕いだり、ラグビーしたり…自由気ままな生活をエンジョイしていました。

2回目は震災後に、8年ほど前ですが、家族4人で東灘の社宅に1年半ほど住みました。海運会社間では合理化が進み、海岸通にあった支店も閉鎖。六甲アイランドのコンテナターミナルへと要員削減の上集約しました。コスト管理の仕事はパーッと明るいものではありませんでしたが、家族で暮らした神戸の想い出は海、山、蛍狩りやサイクリング…楽しいものばかり、家族全員(特に娘達)にとって神戸での暮らしは短かったけれど一生の楽しい想い出となっている様です。

今回は娘達(高2と中3)も大きくなりましたので、家族は東京に残し、昨年4月から同じ東灘の社宅に入り、単身生活を始めました。食べ物はデパ地下やコンビニに頼り、洗濯屋も安いのでアイロンかけも必要なし。国内の単身赴任は“楽勝~っ!”と昔を思い出し、東門筋辺りの再開拓や休日には六甲山の山歩きもやってみたいなと夢は膨らみましたが、東京との行き来は既に家計を圧迫、何よりも昔の体力ももはや無く、休日は社宅でテレビを見ながらゴロゴロする生活に堕ちました。 でも、せめて体力だけでも溜めようと早朝ジョギングを始め、なんとか前向きな生活のリズムを作りたいと努めています。

独身で、家族で、単身で・・・神戸は素敵なところですから、きっと楽しい暮らしが出来ると思っています。
皆様、どうぞ、よろしくお願い致します。

≪タイ王国とタイ人≫

一宮 弘忠(昭39法)
一般的な日本人のタイのイメージはどんなものであろうか?
食べ物は辛い、エイズが蔓延している、売春婦が沢山、年中暑い、とタイに住んだことのある人は別として非常にイメージが悪いのではないだろうか。日本にいてTVで放映されるタイの番組を見ていると番組を面白おかしくするためか極端な取り上げ方をしているものが多いのでそれも仕方ないかと思う。
タイに住んでみてのタイ人の良い所を2~3挙げさせてもらうと日本でもその昔あった良さ。物質的に豊かになるにつれて失って行った良さがまだ失われていないことだ。
その一つは礼節。お年寄り、親、目上の人を敬い大事にする心を持っていること。
乗り物では必ず席を譲る、学校での先生への態度( 学級崩壊など考えられない )、中華料理を食べに行った時年下、目下の人は絶対に先に箸をつけない、日常生活での挨拶等々。それが日常生活の中でごく自然に当たり前にやられている。

これらはどこから来ているのかはっきりとは分からないが、国王への敬愛、仏教への信仰、お坊さんへの敬愛 、家庭、学校での躾、教育が基本にあるように思える。
近年日本では、国旗、国歌が法律で制定されたが、タイでは、官公庁、学校で毎日朝八時には国歌をバックに国旗の掲揚がなされ、夕方六時には降納されるし、TVも番組の途中であっても番組を一時中断して八時と六時には国歌が流される。またタイには国歌以外に「国王讃歌」があり国王に敬意を表する場合(国王の出席される行事など)に演奏又は唱われる。
映画館では映画上映開始前に国王の肖像が画面に映し出され、全員起立してこの曲が流れ、声を出して唱和する人がいたのには、最初驚きであった。又「国王讃歌」の日本語訳を次に記すが、この歌詞を見た時は更に驚きであった。

心も頭も陛下にささげます
陛下の威徳、慈愛はあまねく
とこしえに
生きとし生けるは陛下のおかげ
ご慈愛はますます深く
めぐみをもたらす
陛下ののぞみはすべて
かなえられましょう
すべて陛下のおんために捧げます
( タイ国日本人会80周年記念誌クルンテープ転載 )

二つ目は分。社会生活の中で各人が分( 分相応の 分 )をわきまえていること。
三つ目はひたむきさである。その他にも感じる良 さはあるが、この三つが今の日本と比べ特に印象的。
しかし物質的に豊かになるにつれ、これら良さ が少しずつ失われていく兆候が見られ残念に思っている。

そんなタイも通貨危機とバブル崩壊とから一時景気が落ち込んだが、今は立ち上がり自立への道を歩み始めている。距離は短いが、高架電車や地下鉄も出来た。又、今年度中には新国際空港(スワンナプーム空港)が開港する。
しかしご存知の通り政治が安定せず又、原油が取れないため原油高の影響が大きく、5月の消費者物価指数上昇率は前年同期比6.2%
(前月比0.7%)で、その主なものは、エネルギーが前年同月比24.6%、公共機関運賃、同25.6%、野菜果物が、同16.2%と日常生活を直撃している。
あらゆる分野でまだまだ発展途上にあることは、間違いない。
それでもタイ人は、年中常夏の気候と食糧自給率300%という恵まれた環境にあり、又、血液型は0型の人が一番多いせいか、おおらかでクヨクヨしない国民性もあり、見ていて焦りが全く感じられない。( 何事につけタイ人から聞く言葉は「マイ・ペンライ」)

ともあれアジアで唯一欧米列強の植民地にならず独立を守り通して来たタイ王国、タイ人は、誇り高く、そしてしなやかで、したたかであることに間違いない。 日本がタイに教えることも沢山あるが、タイから日本が学ぶことも沢山あるのではないか。

今月は休みます。

このコーナー、は新しく入会された方の自己紹介やご無沙汰会員の近況報告等を紹介する交流広場です。
どしどし投稿してください。(編集部)

≪どうぞよろしく≫

盛山 昌子(平15商)

昨秋、父が急に神戸で立候補をいたしましたため、私も度々神戸に参りますようになりました。この冬より皆さまのお仲間入りをさせていただいています。

お正月、六甲山に行った際にスキー場があることに気付き嬉しくなりました。母がジュニアのスキー指導をしておりますため、私は大学1年生の時から幼児や小学生を対象としたスキーキャンプで、指導員としてお手伝いをしております。長野県、志賀高原をホームグラウンドとし、4泊から5泊の泊まり込みで朝食から夕食・お風呂までまさに寝食を共にした生活を送っています。

怪我をさせないということは当然のことですが、私達の一番の目標は全員をスキー検定に合格させ、合格証と合格バッジを持たせることです。「自信」という宝物をお土産にすることです。初めて雪を見る子供さんや幼稚園に入ったばかりの子供さんもいます。楽しいことも苦しいことも寒くてつらいことも共にし、検定の日を迎えます。一番下の級はたった3本のポールですが、子供達も私達スタッフも手に汗握る緊張感の中で行われます。合格発表の際、自分が教えた生徒の名前が呼ばれた時には自分が受かったかのように、多分それ以上に嬉しくて、涙が出そうになります。

同じ目線で同じ物を見て、同じように感動した後に生まれるつながりの深さは言葉では言い表すことが出来ません。この気持ちを大切にしたくて、指導員のお手伝いを続けているのかもしれません・・・

知らないことばかりの神戸です。どうぞよろしくご指導いただきますようお願い申し上げます。

≪陶の郷での陶芸体験≫

石崎 雄三(平9経)

先日、家族3人で丹波篠山の陶の郷に行き、立杭焼きの体験をしてきました。我が家のある西宮より中国自動車道、舞鶴自動車道を経由し三田西インターでおり、そこから約15分、計約1時間のドライブでした。三田西インターまではゴルフで通いなれた道ではありますが家族で今まで行ったことはなく、普段とは何か勝手が違うように思われました。

今3歳で来月より幼稚園に入る娘に何か思い出に残るような体験をさせようと今回思い立ち行ったわけで、私が陶芸に造詣があるわけでもなく、また彼女に芸術の才能があると思ったわけでもありません。(私の血をひいているのであれば 当然のことでありますが)・・ちなみに陶芸体験は1人1個の製作で¥800-、2ヵ月後焼きあがったものを送っていただくのに¥1,000-、家族3人で合計¥3,400-でした。私は平皿(のようなもの)、妻は花瓶を作りました。

娘といえば、本人曰く「スープ皿」とのこと。娘の作った器は所々隙間があいており、しかも中にはスープの具まで粘土で作り入っていました。本人はその作品の出来に満更でもないような顔、私と妻は「これって何に使えるのだろう」と呆れ顔。向こうの係りの方に娘の作品を指し「これって何に見えますか」と聞いてみると「大きな思い出になるように見えますね」と言われました。なるほど良いこと言うなと感心しつつ2ヵ月後送られてきたものをはたして自分が作ったものと娘が認めることができるのか?と考えながら1時間半の粘土との格闘を終えました。

1時間¥800-で下手は下手なりに結構陶芸を堪能できました。(同時に、自分の才能のなさも再認識できました)2ヵ月後、作品が送られてくるのが楽しみであるとともに、どのような形になっているのか不安でもあります。

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『2008年慶應義塾は創立150年を迎えます。』

http://www.keio.ac.jp/

≪ライブドアショックと採用活動の関係≫

柴田 巧(平16環)

現在、私は西日本電信電話株式会社(以下NTT西日本)に勤めております。卒業して間もない小生ですが、季節柄、平成19年度の採用活動に携わっています。キャンパスコミュニケーターと言う、所謂リクルータとして学生の就職支援を行うのが私の役割となります。採用に関して、今年の状況を見ると、NTT西日本はもとよりNTTグループ全体でも、我が義塾からの就職希望者数が例年より少なく寂しい状況です。先日の日本経済新聞の報道でも明らかなように、グループに限らず主な情報通信関連企業の殆どで就職希望者数が減少しています。

この敬遠の理由の一つを、私は間違いなくライブドアショックと言われ社会問題となった内部統制問題だと考えています。もちろん、この内部統制問題は、情報通信企業だけの問題ではありません。不実記載を中心とした財務報告の信頼性を裏切る内部統制問題に限っただけでも、西武グループや読売グループ、カネボウ、JA等と、日本において名立たる企業の不祥事が発覚しています。しかし、ライブドアの影響が大きかったのは、情報化の流れの中で急成長していた企業であった事、ドリームゲートのような学生向けベンチャー創出政策のフラッグシップ、目標として崇めていた企業であった事、プロ野球問題などでの新旧対決を演じ国民を仲間にして日本で一番有名な企業になっていたこと事であります。

つまり行政、立法の公、また私である国民全体でも応援し、言ってしまえば日本のITの寵児であった企業の不祥事である事が、社会的に大変影響が大きかったと考えております。ライブドア内部においても、情報通信業界全体でも、公明正大且つ誠実に一生懸命仕事をしている大半の社員にとっては、大変迷惑な話ですが、事実このような影響が採用にも出ています。

特に、義塾はアンテナの高い学生が多いからなのでしょうが、敬遠状況が鮮明でした。しかし、次世代の産業となる情報通信産業に優秀で志高い若者が入ってこないのは、なんとも将来が心配になります。私のNTT西日本における所属は、上流の業務プロセス改善をリードする、コンサルティンググループERPチームという部門であります。一連の事件を受け改正された会社法や、現在日本版SOX法(※)として巷を騒がせております投資サービス法改正周りの動きを追いかける主管の部署です。微力ではありますが、私は業務を通じ、企業の支援にとどまることなく、学生の心配を払拭するという志も携えて、どうにか次代の産業を支える学生を多く業界に送り込む支援をしたいと考えています。

最後にアピールでございますが、知恵深く経験豊富な皆様におかれましても、一連の内部統制問題の理解、企業倫理など統制環境の啓発、また内部統制を支えるシステムの整備などにおいては、是非とも私にもお声掛けの程、何卒宜しくお願い致します。

(※)本国会において予算審議後6、7月の成立が目指される法律。12月8日、企業会計審議会で公開草案から基準(案)となった。関西合同三田会の錢高さんも企業会計審議会の委員としてご活躍です。

≪絆~慶應義塾の素晴らしさ~≫

二川 和也(平17商)

2001年4月、私は何も分からないまま母親と二人で上京し、入学式を迎えました。中学・高校ともに慶應に入学した同期がいないこともあり、期待以上に不安を抱えた一日でしたが、当時の鳥居塾長がおっしゃった「慶應義塾に入ってよかったと本当に感じるのは、社会に出てからかもしれない」という言葉は今も胸に残っています。

入学式翌日、サークルの説明会に参加してから、不安がぶっ飛び、『慶應義塾大学の絆の素晴らしさ』を実感する毎日がスタートしたのです。

私は「非常に厳しく楽しいソフトテニスサークル」で最も多くのかけがえのない時間を過ごしてきましたが、それ以外でも、三田祭、各種スポーツの慶早戦など他大学では感じ得ない数々の経験をしてきており、就職用業界説明会、OB訪問などでは塾員の方々に大変お世話になってきました。そして、その度に感じてきたのが、『慶應義塾ネットワークの強さ』です。各業界でご活躍されている塾員の方々が非常に多くいらっしゃることは当然、誇れることですが、その先輩方がみな親切に、思いやりを持って接してくださることが最高の喜びです。

神戸にいつまでいられるか分かりませんが、神戸慶應倶楽部の皆様、今後ともよろしくお願い致します。