連載 社中の心

シリーズ第2弾

森本 周子(旧姓 小川)
(昭和25年文卒)
2002年11月号~2003年2月号連載

第1話
峠の会
第2話
『事実は落語よりも奇なり』
第3話
元旦について
第4話
(最終話)
樋口 一葉雑感

11月号

第1話 『峠の会』

耳馴れぬ『峠の会』とは、KLA(Keio  Ladies Association)の中の三人(村尾・山口・森本)が新たに同好会の一つとして、本年六月に発足させたグループの名称である。

第一回は、我が家の近く西田公園の中にある万葉植物園に於いて、夫、森本浩(元武田薬品研究所長を経て、神戸学院大学教授、現在無職)をボランティア的ゲストスピーカーとして、「万葉集の植物の薬用について」と題する極めて気楽な話をして貰い、昼食後苑内の見学を行った。

第二回は、八月二十九日、西宮の酒蔵通にある「日本盛煉瓦館」に於いて、「峠の会」命名のきっかけとなった漱石の「草枕」を古典再読という形で出席者に読んできて貰い、感想を述べ合ったのである。

明治三十九年に発表した「草枕」は漱石の初期の作品で、短篇としておよそ二週間位で書き上げたと言われている。
特に「草枕」は現代に至る迄、作中の文章が多くの有名な作家、評論家によって引用され、一般に普及している。

「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」

の冒頭の文句、画家として旅に出た主人公が足下に雲雀の声を聞き、シェリーの詩を思い出し暗誦し、のちに一服する「峠の茶屋」は芳野鳥越の峠であった。 
 「漱石が名づける非人情の境地は、西洋芸術より出世間的な詩味を大切にする東洋芸術により多く含まれているという主張に注目してみる必要がある」と伊藤整氏が、近代文学鑑賞講座で述べているように、東洋の詩味にも通じた作品は、人間理解の一つとして、「峠の会」命名の動機ともなった。

次回三回目は、村尾会員の御夫君、村尾澤夫氏(大阪府立大学名誉教授)に登場していただき、農芸化学、バイオの専門分野のご研究を素人にも分かりやすく面白い解説をお願いすることになった。
二〇〇二年十一月二十五日(月)午前十一時から午後二時迄、ノボテル甲子園(元甲子園都ホテル)にて開催の予定。
 「峠の会」では小規模なりに、ぼつぼつKLA以外のビジターに呼びかけて、ご来場を願う声が大きい。

ここで、当倶楽部会員でもある多田智満子さん(昭二十九文)から、「峠の会」に俳句を寄せて戴いたのでご紹介したい。

青葉してよき茶屋ありし峠かな
湧き水の清きを汲まむ峠道
山笑ひ老いの足どり重からず

12月号

第2話 『事実は落語よりも奇なり』

平成の始め、慶應同期の親友・若城希伊子さん(折口先生・池田先生門下で、著作多く、数々の賞を受けた人)の推薦で、神戸新聞の「随想欄」に、三ヶ月に亘って月二回、色々の思い出を書いた時のことである。

第一話は、「今はや流行らぬ諺」と題する小文に「三尺下がって師の影を踏まず」という諺の原典を、M女子大のY先生にお尋ねした所から始まった。当時高校生だった息子に聞いたところ、「三尺下がって師のハゲを笑う」なら知っていると、すまして答えた。恐らく、息子が志木高校の寮生の間で交された言葉であったに違いない。

それから二ヶ月たって、同じく講師室で賑やかに昼食をとりつつ、私が「内の夫は『四十年まずい飯を食わされ』という十八番のセリフがあるんですよ」と言ってから、「でも時々、近所の先輩のMさんのお宅へ手作りの料理を持参すると、ご主人が『これは旨い』とほめてくさるんですが」と話を締めくくったところ、二人の老先生は声を揃えて笑いながら『そりゃ、よその飯はうまいですよ』とおっしゃった。

もう一人の講師のS先生は、八十才位の商業英語の大家で、毎週名古屋まで、新幹線で教えに行っておられ、退職後も予備校の校長さんになられたと聞く。 早くに夫人を亡くされたS先生は、ご長男夫婦とお孫さんとしばらく同居なさっていた頃のことを述懐され「この猫は、この家の先住民族やと言ったら、皆出て行ってしまいよった。嫁さんだけは、毎週掃除に来てくれるがね」とサラリと言ってのけられた。

第二話、女学校の先輩のこと。
極めつけは、「M子さん、階段から落ちる」の日である。
ある朝、ご主人の度重なる態度に腹を立て、思わず階段の上から彼の枕を蹴飛ばしてやったら、枕と共に彼女が下まで落ちて腰を痛め、立ち上がれなくなった。出勤前の次男さんとご主人が洗張りの板に載せようとされたが、いくら小柄でも安定悪く、雨戸一枚に乗せてワゴン車に乗せ、A市からN市の外科病院に運ばれた。レントゲン検査の結果、腰骨が折れていると分かった由である。

自作狂歌(続編)(狂名 無しのつぶて小石)

◇ノーベル賞 誰でもとれる貧乏賞(性)
   女三人 寄ればざわめく
◇今晩のおまわり何にしなはるか
   姑の声 思い出す今(新婚の頃)
◇我が声を ラジオから聞く 神無月   
   読書週間 第一日目
◇保険屋は 十年先の予想屋か
   長生きせよと しつこくせまる
◇万葉の花に思いを寄せる日々
   うしと見し世ぞ 今は恋しき
◇薬品の名前ばかりがノーミソに
   浮かぶ時こそ 梅雨は来にけり
◇扇風機 風のとりあい 孫たちは
   省エネブーム 夏の一幕
◇ゆっくりとひなた日向の蝿はただ歩く
   体力弱り 冬を待つのみ

1月号

第3話 元日について

七十年以上も日本の国に生を享けているにもかかわらず、特に印象に残るお正月がないので、最近読んだ夏目漱石の「永日小品」の「元日」の冒頭の文を引用してみる。

「雑煮を食って書斎に引きとると、しばらくして三、四人が来た。いずれも若い男であるその内のひとりがフロックを着ている。着なれない所為か、メルトンに対して妙に遠慮する傾きがある。あとのものは皆和服で、かつ不断着のままだから頓と正月らしくない。この連中がフロックを眺めてやぁーやぁと一つずつ云った。みんな驚いた証拠である。自分も一番あとで、やぁと云った。」

上の文中、フロック、メルトンとゆう単語が視覚的に戦後、物資窮乏の折から、亡き祖父の正装であったフロックコートや、メルトン(フロックより少し布地がうすい)のコートをつぶして、私の大学時代の一張羅として更生させた時の記憶が鮮明によみがえった。ちなみに漱石の文中、着慣れないフロックでからかわれている男は森田草平である。

蛇足ながら、西宮の古書店で森田たま著(前述の草平氏とは関係ない)の随筆歳時記を求めた。一月、踊りぞめの描写があり、芸を披露する破目になった二十一才のたま女が風呂敷包みから着替えを取り出し、「一人で鏡をみないで、うまく結べるかしらと、ぎゅっと帯びのたれをひき抜いてゐると、突然うしろから声がして『あたし締めてあげるわ』と云った人があった。・・・・・あたたかい手であった。『ハイ、できました』・・・・・とその手がぽんと私の背中をたたいた。・・・・・くるりと向きなほった私は、初めてその人を見て、あっと驚いた。私の眼の前に、にこりとして起ってゐたのは、思いもよらぬ夏目先生の奥さんだったのである。」と書かれていた。私の娘時代戦争中だったから、お正月に着物を着た記憶は、ほんのニ、三回しかなかった。

私にとって元日の目出たさを感じさせる調べは、三番叟である。特に、女学校以来の親友K子さんから、テープに吹き込んだものを贈られて、自分の気が向く時に一人でかけて楽しんでいる。

K子さんは、幼い頃から、長唄、三味線を習い、成人後、杵屋五三郎氏(人間国宝)に師事していたように記憶する。美人薄命というのが当たっていると、つくづく世の無情を歎きたくなるのだが、早くに御主人を亡くされ、私が五十代の頃は可成りひんぱんに上京し、彼女に出会う度に、我が身の肉付きが日増しによくなる?のを嘆くと、「あら、貴女は幸せだからよ」と云われて、返す言葉がなかった。六十年もつきあっているのに、最初の出会いと全く変わらない友情がつづいているのは、不思議な位である。友達なればこその忠告もしてくれるし、私は、両親共、早く亡くなったので、親身になっての言葉は何より有り難い。

2月号

第4話 樋口一葉雑感

何故一葉の肖像が新しい紙幣に印刷されることに決まったのか詳しい事情は分からない。
だが、一葉の名は、多くの同時代の文士の名と共に私の記憶に鮮明に残っている。私は学生時代、戦中戦後、本郷に住んでいたのだけれど、一葉も一八七七年小学校に入ってから何回も転居したとはいえ、一八九六年二十五歳で亡くなる迄、本郷近辺で生活していたということによるのでもあろうか。

槐一男氏は近薯「一葉の面影を歩く」の中で〔漱石と一葉〕に言及し、鏡子夫人の回想を引用している。〔漱石は〕「当時たいへんな人気だった紅葉の『金色夜叉』にはいっこう感心していなかったが『たけくらべ』などにはことに感嘆し、男でもなかなかこれだけ書けるものではないと申して一葉全集を読んでいた」(夏目鏡子『漱石の思い出』角川文庫 昭四一)

川口昌男氏は、彼女の手紙に関する著書の中で「一葉という筆名は達磨大師が葦の葉に乗って海を渡ったという伝承にちなみ、同時に、達磨に足のないことから『おあしがない』と貧乏をしゃれのめしたもの(和田芳恵『樋口一葉』講談社新書一九七二) 、また(漂う舟)という表象でもあるようだ。」を書いておられ、私の東京女子大の先輩、神坂信さんの私への手紙は、「一葉もあれ程欲しかったおかねにのるなんて、あの世で苦笑していることでしょう」と結んである。

かつて福澤先生は男女平等を説かれた。教育の面で私がその恩恵に与ったのは、戦後、大学の男女共学の制度が、昭和二十一年に始まったおかげで、私にとって、塾への入学が昭和二十三年(東京女子大卒業の年)可能になったことである。

一葉が、平成の日本において、他の男性(福澤諭吉、新渡戸稲造)につづいて、女性として初めて、二〇〇四年、日本銀行の紙幣の表のデザインに採用されたとき、もし福澤先生がそれをご覧になったら、男女平等を念願されていた先生は、「よしよし」と満足なさるにちがいない。

ちなみに福澤先生の一万円紙幣は、昭和五十九年十一月一日発行で、夏目漱石の千円券も、新渡戸稲造先生の五千円札も同時発行である。

一葉の新しい五千円札を目にする日が待ち遠しい。
(最終回)