連載 社中の心

シリーズ第6弾

堀切 民喜
(昭和29年経卒)
2004年2月号~5月号

第1話
『関西勤務40年』(1)
第2話
『関西勤務40年』(2)
第3話
『関西勤務40年』(3)
第4話
(最終話)
『関西勤務40年』(4)

2004年2月号

『関西勤務40年』(1)

非体育系のつぶやき

中神安邦さんの「タイガージャージ」を楽しく読ませていただいた。体育系の人々の青春時代にはなにかロマンがあり羨望を感じる。

私は典型的な非体育系である。非体育系には音楽演奏から俳句、旅行までおよそ人生に潤いを与える多彩な文化系がある。しかし、いまでもあなたの趣味はと聞かれると、「読書・音楽鑑賞」としか答えようのない無趣味な私に残されていたのはまことに野暮な学術研究系であった。私は学研の「近代経済学研究会」に属していた。

同好の士

当時、この研究会は早稲田、中央、東京、一橋の四大学と「インターゼミ」を開き、意見発表当番校のキャンパスを交代で訪れていた。私も意見発表をしたことがある。いま残っている唯一のノートでその日付を調べると昭和二十八年十一月二十四日となっている。遠い昔の話とはこのようなことをいうのだろうと、かねて思っていた。

ところが先日、日本経済新聞の夕刊に連載の「人間発見」で、イトーヨーカ堂の鈴木敏文会長のお話「常識を打ち破れ」を読んで本当にびっくりした。私の方が二年早く卒業したのでおそらくご一緒したことはないが、一月六日づけ記事で鈴木さんが中央大学の学生としてこのインターゼミに加わっておられたことをまさに発見したのである。

役に立った近代経済学

鈴木さんは「五大学共同のインターゼミがあって、ここでずいぶん鍛えられた。議論を戦わせては本を読み、また議論する。その繰り返しでした」と述懐されている。

私は鈴木さんとは二十年ほど前に、ある勉強会で何回かご挨拶した程度であるが、感激のあまり失礼を顧みずつぎのような感想文を送らせていただいた。
「私もまったく同じことを実感しており、この時の集中的な勉強がその後の社会人としての私のキャリアに一番役立ったと信じております」。

なぜ役立ったのか、次回にそのことを述べてみたい。それが長い関西勤務の始まりでもある。

2004年3月号

『関西勤務40年』(2)

関西経済同友会代表幹事スタッフ

昭和四十一年二月、住友信託銀行の東京調査部で企業調査の仕事をしていた私は突然大阪の本店調査部に転勤を命じられた。当時三十五歳の私にあたえられた任務は四月に関西経済同友会の代表幹事に就任する山本弘副社長のスタッフということであった。

いわば突然白羽の矢が立ったわけであるが、たまたまそれまでに手がけたいくつかの論文が山本副社長の目にとまったとしかいいようがない。そもそもはその四年ほど前に住友信託銀行が初めて「中期経営計画」を策定したときに担当した「経済・金融環境調査」であり、さらにはそのしばらく後、四十年前後に証券不況が吹き荒れる中でまとめた「某証券会社に関する調書」などである。

経済・金融環境調査

長期経営計画の前提となる中期(三年間)の経済・金融環境を予測するために役に立ったのが「国民総生産」や「国民所得」など、昭和二十年代後半に「千種ゼミ」と「近代経済学研究会(前回紹介)」で学んだマクロ経済学の手法であった。

個人所得、民間設備投資など国民経済の各項目を推計するために簡単な相関式を考案し、来る日も来る日もモンロー電気計算機をまわしつづけて適当な推計値にたどりついた。そして「部門別資金過不足」を求め、これを日本銀行の「資金循環表」のフレームと結びつけて資金吸収面や借り入れ需要の見通しをなんとか導きだすことができた。  

この仕事は元はといえば、東京調査部の上司の課長が「堀切はケインズ経済学をやったらしいから何とかなるだろう」といわば山勘で引き受けてきたものであったが、当時はあまり知られない分野だっただけに社内で珍しがられ、たいへん評判になった。

証券不況の頃

この証券会社の見通しはきわめて暗い」という私の調書の結論を見て山本副社長は激怒し、ある日の夕方「東京調査部長とともにただちに大阪に説明に来い」という電話が入った。

東海道新幹線の開通する直前であり、その時間には大阪直行の夜行列車も満員だった。やむなく部長とともに、新宮ゆき那智号に飛び乗り早暁宇治山田に着いて伊勢神宮に参拝し、近鉄の始発を待って難波に着き、床屋でさらに時間調節をして十時に出頭した。ところがろくに説明も聞かず、ただの十分間で追い出された。

この例のように叱られることが多かったが、たまには褒められることもあった。四十年不況を受けて戦後初めて国債を発行することになり、これの金融市場に及ぼす影響について諸説があったので意見を具申したところ、「裨益するところ少なからず」という激励の葉書をもらった。

山本副社長の財界スタッフとして指名されたのはその直後であり、どうもこれが決め手になったように思える。
(続く)

2004年4月号

『関西勤務40年』(3)

関西財界訪中団

昭和四十二年春、山本さん(住友信託銀行副社長)が体調不良のため同友会代表幹事の職を一年で辞任したためスタッフの仕事は直ぐに解放され、そのまま大阪勤務となった。ところが本店営業部や審査部で現業の仕事の喜びに浸っていた昭和四十六年春、元気になった山本さん(当時社長)が再び関西経済同友会代表幹事に就任したのに伴いスタッフとしてもう一度秘書室に呼び戻された。

二度目のおつとめはなかなか楽しかった。この年、関西経済同友会が音頭をとり、九月に戦後はじめて関西財界の総意による訪中ミッション(団長 佐伯勇大阪商工会議所会頭)が実現した。私は「日中関係資料」の作成などの事前準備に精を出し、秘書団の一人として訪中団に参加して団長挨拶などの原稿つくりを手伝った。九月二十三日の深夜、北京の人民大会堂で行われた周恩来首相との会談にも陪席することができた。ここで恒例の記念写真の端っこに顔を出し、日本の軍国主義復活やアメリカの帝国主義を懸念する同首相の力強く、若々しい声を直接聴くことができたのはいい思い出となった。

またこの時期に山本さんと代表幹事のコンビを組み、訪中団結成に大きな役割を果たした佐治さん(サントリー社長)の知遇を得たことも幸運だった。 

東京に戻るチャンス

中国訪問の翌年、総合企画部次長に就任したとき、住友信託銀行では大阪に集中していた本部機構のかなりの部分を東京に移転する計画が持ち上がり、私はこれを推進する責任者になった。立案した計画そのものは無事常務会で承認され、大阪本店のかなりの人員が東京に転勤となったが、皮肉なことに私は数少ない大阪残留組となった。

しかし、残留したためにその後大阪で調査部長を二年、本店営業一部長を三年それぞれ経験し、その中で社外に多くの親しい友人をつくることができたといえる。東京に家を構えるチャンスは昭和五十六年六月、東京、大阪両方を管轄する事業調査部長に就任したときにもあった。

私はためらうことなく都内世田谷区の社宅に転居し、それまで東京に残してきた母と同居した。そしてその翌年には大田区沼部の父親譲りの土地に家を新築した。母は八十歳で他界したが、おかげでこの家から送ることができた。

関西経済同友会

しかし昭和六十年六月、専務就任と同時に大阪駐在となり、東京生活はわずか四年間で終わった。とりあえず神戸市東灘区の社宅に入った後、東京の家を売り払い近隣に自宅を建てた。

昭和六十二年に関西経済同友会の都市問題委員会の委員長に就任し、翌六十三年に「都市の魅力を探る」をテーマにヨーロッパに十日間の視察旅行を行った。ここで建築家の安藤忠雄さんに親しく指導を受けた。翌年、代表幹事に就任し、ここからは公私ともに関西一辺倒の生活が始まるのである。
(続く)

2004年5月号

『関西勤務40年』(4)

人生の岐路と新たな出会い

平成元年四月、関西経済同友会の代表幹事に就任し二期二年務めた。関西経済界では東京から訪れる政界や官界の首脳との懇談会を、同友会、関経連、大商、大銀協などの経済団体が共同で開催する習慣がある。そのため私は同友会の代表として関経連の宇野収会長や大商の佐治敬三会頭と同席する機会が多かった。

経済界の大先輩で貫禄十分なお二人に挟まれて若輩の私はうろうろするばかりであったが、そのような会合でいつも「東京一極集中の是正」をワンパターンで訴える私の書生っぽさにお二人は目をつけられたのであろうか。

宇野さんからは、代表幹事を退任した平成三年春、第三次行革審の専門委員、関経連の行政制度委員会、大阪湾ベイエリア開発推進協議会の仕事にそれぞれ協力を求められた。佐治さんからは平成五年春、ご自身が会長を務めておられたFM放送会社「エフエム802(はちまるに)」の社長就任のお誘いがあった。

私は丁度その頃、長年務めた住友信託銀行を副会長を最後に退いたのでその後の人生はもっぱら関西経済界のこの二人の大先輩のお引き立てによるところが大きい。昨年六月から務めている「本州四国連絡橋公団」の仕事も元をたぐっていけば十年あまり前のこの頃に発しているのである。  

慶應義塾という宝物

そしてさらに遡ると、その淵源は、第一回で述べたように五十年前に大学の千種ゼミで学んだマクロ経済学になる。
しかし慶應で学んだことは「国民所得論」のようなテクニカルなものだけだったのだろうか。この四月三日、私は卒業五十年ということで大学の入学式に招待され安西塾長の式辞を聴いてはっとするものがあった。

安西塾長のメッセージは在学中に「三つの宝物」を探せということであった。三つの宝物とは良き師、良き友と出会いエネルギーを互いに与え合うこと、自由な環境の中で新しい自分(潜在能力)を発見すること、そしてこれらを通じて自分自身にとっての慶應という宝物を見つけ自らの血肉になるよう努力すること、おおよそこのような内容であったと思う。

五十年前に慶應で身につけたことは単なる経済学の知識だけではなく、師友に恵まれ、思いを深め、心を耕し、慶應という宝物を私なりに見つけたということであり、このことはタイガージャージやワグネルの世界にも共通するのではないだろうか。慶應義塾に学んだ幸せをあらためて感じるこの頃である。

(終り)

堀切様、公務ご多忙の中での執筆ありがとうございました。今後益々のご活躍とご健康をお祈りいたします。(編集部)