連載 社中の心

シリーズ第7弾

2004年7月号

『ノスタルジー 人・旅・本』(1)

世に言う器用貧乏とは私のことかと、若いころ真剣に悩んだ。何でもそこそここなすのに、どれも物にできない。これではもう、お嫁さんになるしかない・・・と自分で見切りをつけるのも早かった。慌てる乞食は貰いが少ないとか、当たらぬ鉄砲も数討ちゃ当たるなど言われながらも、見合い写真をばらまいた末、四年制大卒を(当時の結婚は短大卒が断然有利)がっしり受け止めてくれた人にめぐりあって、まずはめでたし。

さてその彼が、ヨーロッパの城の本を贈ってくれた。それは当時としては考えられないほど贅沢な写真集であった。世界が大戦後の復興に向かい始めた未だ荒廃の中、一人の夢を持った日本人城郭研究家が歩き回って撮った限定版であった。高価だったと思う。彼の給料のことも忘れ、嬉しくて抱きしめた。本を。

子供の頃、童話の挿絵にある外国のお城が広く美しすぎるのでは?と伯父に尋ねて「いや、これ以上のお城も沢山あるよ」に言葉を失ったことがある。いつか行くのだわと決心していたが、世界はそれどころではなくなっていた。終戦。そしていつか諦めていた。

慶應に入って教養から専攻に移る時、この思いが残っていたのかもしれない。西洋史へ・・・。
近山先生の中世史の講義に熱心に出ていたが、卒論は原書を必読の事と聞き、独・仏語では無理とこれまた見切りを付けて、アメリカ史に題材を選んだが、面白くも何ともない物になった。
もしあの卒論が残っていたら、一度見てみたいがショック死すること間違いなし。あの頃の女子学生は甘やかされてたと思う。

卒業後、何年かして父が会議でヨーロッパに行った。機内で隣席の人と話しているうちに「えー?守屋君のお父さんですか」と言われ、「わしは怖いものは何一つないが、慶應の先生だけはこわい。」と嘆いた。あら、M先生はAだから心配しなくてよかったのに、と言っても信用してくれなかった。

ともあれ、むさぼるように世界の城郭の写真を眺める子育て最中、旅行の出来る状態ではないのは神様が「勉強が足らないよ」とお許しがないのだと解釈して再勉強。
この時期があったので、その後の城郭を訪ねる旅は思いがけない出会いも含め、充実したと思う。時は過ぎ、今や誰でも旅が出来る時代となり、お城など珍しくもないが、行くたびに観光化し、綺麗になりすぎて魅力は半減。

今さらに、半世紀昔のあの本は何と貴重な写真に満ちていることか。荒れ果てたままの状態はカラーでないだけに、迫るものがある。

(続く)

2004年8月号

『ノスタルジー 人・旅・本』(2)

ハリーポッターが有名になって久しい。映画化した主演の少年も随分成長して、この先どうなるのかしら。先日たまたまその第一作を見たが、舞台はまさに映画「チップス先生さようなら」の世界であり、昔読んだ池田潔先生の薯「自由と規律」の世界だった。

この本は先生が1920年代にケンブリッジのこのリース・パブリックスクール(貴族の基金で設立されたが貴族でない生徒も受け入れたので、私立でありながらパブリックとよばれるとか)で受けた教育についての思い出だが、小気味よい切れ味で、自由と放縦の区別、自律、幼いながら紳士としての礼儀、スポーツマンシップ、人間の尊貴と義務の重さのエピソードが溢れ出た本だった。

慶應義塾に通じる信条多く、息子の高校の入学式で壇上から「本日より君達を紳士として扱う。紳士たるものルール違反をせず云々・・・」と言われた事を思い出す。

この本の中で筆者が、学校特約の理髪店より設備のよい店に内緒で行ったとき、隣が校長だった話。罰を待つ彼に「まだ紹介されてないのに失礼だが、私の学校に君と同じ日本人の学生がいてね、もし会うことがあればリースの学生の行く店は決まっているという規則を言伝てしてくれたまえ」悄然として立ち去ろうとする後から「ここは大人の来る店だから心付けが要る。これを渡しなさい。何?自分で払う?一週間分の小遣いではないか。子供は無駄遣いするものじゃない。」行為自体の善悪を言うのでなく、規則は守るべきであるという教えである。

リースではラグビーの試合の後、最もよく働いた者が寮長のお茶に招かれる。ある試合で筆者に球がよく渡され得点を稼いだ時は招かれず、自分の失策で防禦を誤り、何とか償いたいと頑張ったが負けた。その時はお茶に招かれた。たとえ結果は失敗しても真面目な努力を尊び、スタンドプレーや渡すべき球を渡さない選手には敵味方共に微塵の容赦もない。と。

話が長くなって恐縮だが、卒業して50年。当時の名物教授陣が殆ど鬼籍に入られた事は何とも寂しい。中国文学の奥野信太郎先生、国文の池田弥三郎先生の大まじめな顔でのユーモア。英国紳士の詩人西脇順三郎先生、恋愛至上主義を貫いた厨川先生。女性嫌いの折口信夫先生。今もご健在の白井浩二先生はサルトル研究で有名であったが、フランス語を教える気があるのか無いのか、アーベーセーの次の授業でもう仏作文をさせられた。

七百年周期説の西岡秀雄先生の教室は陽気だった。この先生は学徒動員で軍隊に入った時、専門は何だ?と問われ考古学でありますと答えたら、そうかと航空隊に入れられたとか。隊長になって、編隊を組んで飛ぶ時に、レコードを持ち込み、ヨハンシュトラウスをかけさせた。それが青きドナウで、「たーらーらーらーっ、タンタン、タンタン」と演奏しはじめたら、操縦桿を握っていた兵士がそれにあわせて高度をタンタン、ヒュッヒュッと上げてゆくので周りの部下の飛行機も隊長機に合わせて一斉に急上昇した。その瞬間、敵機からの機銃掃射がさっきの高度を通り過ぎていって、全員命拾いしたそうで、嘘かホントか。ゼミの鈴木泰平先生のリーゼント頭も懐かしい。午後の勉強の後半は銀座へ全員で繰り出したものだった。ご存命ならお会いしたい!

(続く)

2004年9月号

『ノスタルジー 人・旅・本』(3)

2000年の春、神戸慶應倶楽部の会において、福井元幹事長のお世話で大手前学園大学院の松村昌家教授の「福澤諭吉と1862年のロンドン」の講演があった。第二回万博の為ロンドン滞在中の幕末使節団の一人、福澤先生の見聞日記を中心に、万博や視聴覚障害者教育の学校、兵器製造工場、特に当時ようやく完成したテームズ川の地底を通るトンネル難工事のお話はとても興味深かった。又開通式の日の地底まで続く立派な階段に溢れる貴顕淑女や行列に並ぶサムライ達のイラストにも心惹かれた。旬日の後に英国南部の旅を控えていた私は、是非その大工事の現場を見に訪れたいと講演後の教授から詳細を伺った。 

旅は大学街の鐘の音と朝の散歩、コッツウォルズの花や跳ねる鱒。自然の好きな友人は、高倍率のルーペで小虫や名もない花の芯を覗いて見せてくれた。チャーチル首相の生まれたブレナム宮殿では、途方もない広さと大貴族の歴史に圧倒され、かの国の階級制度の根の深さに今更思い当たること数々。いやア凄かった。
ドーヴァー近くのカンタベリー大寺院では百年戦争の華、黒太子の鎧姿の石像棺に思いがけぬご対面。感激のあまり、額ずいたまま立ち上がれなかったが、いつの間にか居なくなった友人は裏の小川でアヒルと遊んでいた。

その近くのリース城も美しく広々とした敷地に池や森。ここの散策は夢のようであった。城主の趣味なのか犬の首輪の古いコレクションにはちょっとたじろいだ。

ロンドン塔は二人の王子やジェーングレイ姫の陰惨な歴史も観光客の多さに少し幻滅。この場所に近い、あの150年前のトンネルを是非見たいという私に、友人はその代わり明日は蝋人形の館よ、と条件を出した。あの見世物小屋?と思ったけれど、ここは妥協してOK。

松村教授に教わったとおり、イースト・ロンドン線に乗って、テームズ川をはさむ駅、WappingとRotherhitheへ。当時の荷馬車の通行には充分な高さのトンネルだったのであろうが、ここを通る地下鉄はやむを得ず天井が低い。乗客は有色人種のみ。新聞紙やコーラの缶が停車の度に舞い上がり異様な雰囲気。相棒が妙に頼もしくなった。駅は当時の輝かしい光景は面影も無く、落書きとススの染み付いた壁。ロザーハイツの回廊のような階段のみに当時の名残が少しあった。でもある種の達成感で満足であった。

蝋人形の館は行ってよかった。人の言う事も聞くものである。感心して歩くうちに昔見た「美女ありき」の映画以来憧れのネルソン提督に会ったが、ローレンスオリビエとは大違い。ハートは破れた。すべて実在の人物の中で唯一「眠れる森の美女」が何故ここに?と思ったら、後に松村教授から頂いた資料によると、これこそフランス革命前の王宮で、姪マダムタッソーに技術を教えた叔父自身の製作によるルイ十五世の寵姫(ヴェルサイユをマリーアントワネットと二分した美女)デュバリー夫人であった。

蝋人形の館の歴史は二百数十年を逆上る。

(続く)

2004年10月号

『ノスタルジー 人・旅・本』(4)

冷や汗をかきながらの「社中の心」も四回目を迎えた。いくら史学科卒だからといって、古いことばかり書いて、若い方々には理解を超えるものもあったかもしれない。チョッピリ反省はするけれど、今回、私の蔵書のいくつかの話で終り。いま少しのご辛抱を。

明治40年に父の誕生を祝って頂いたワーズワースの詩集がある。スエードの革張りで中に綿が張ってあり、手に優しい。皮の粉が手につくが「天金」といって、紙の切断面に金が塗ってあるため、中は百年の歳月にもビクともしてない。生後百日の赤ん坊に英書を贈る当時の洋学への風潮に驚かされる。

又、疎開先の蔵で見つけたバーネットの小公子の初版本は私が最も大切にしているモノ。美しい青色をしていたが蔵から出したら数年で色が褪せてきた。しかし紙はcotton paperといって薄いフェルトのような質感で、挿絵は銅版画である。外国の本は皆このように立派な装丁なのだと信じていたが、初めて外国に行った時、まず本屋に駆けつけて呆然とした。あの風格のある本達の姿は無かった。

明治27年の墨跡あるラムのTales from Shakspeare(原書のまま)や、ペーパーナイフの風化した痕も無惨なモロアの英国史、アメリカ史。今の人達には読めない岩波文庫のモーパッサンやバルザック等。新しいところで「慶応義塾90年・三田にひらめく三色旗」がある。ここに並ぶ錚々たる名前と文は壮観であり、装丁は貧弱だが塾員にとっては珠玉のような本である。戦後の話で、所蔵の方は少ないと思う。これも私の秘蔵書。

さて戦災で消失してしまったにもかかわらず、深く心に残る本がある。一冊は親戚の某紡績会社の二代目夫妻から、二年がかりの新婚旅行のお土産に、当時三歳だった私に頂いたグリム童話。ガッシリと大きく立派な絵本で、ドイツ語の花文字の美しさ、地厚な艶のある紙。赤頭巾ちゃんの狼がリアル過ぎて、こんな狼さんイヤッと言いながらも豪華な本が嬉しくてマイ宝物だった。大事にする余り手元に置き、空襲の時まさかこの家が焼けるとは思わずに手を引かれて逃げたが、焼夷弾が何十発も落ちた跡はすべて消えていた。くりぬいて金魚が入れてあった庭石が真ッ二つに割れていた事が妙に印象に残っている。

同じく焼失したファーブルの科学物語では、ベラドンナを食べて死んだ友を悲しむ甥たちに、ジギタリスなど毒のある植物を語るくだりが忘れられぬ。分厚いカトリック童話集では信仰深い王女ドロテアが善行をつむたびに天国の花園にバラが咲く話。父王が天使に案内されて娘の花園の横に荒れ果てた自分の花壇を見て悔い改める話も印象に残る。挿絵の姫は美女であったが、後に見た聖女ドロテアの像は又しても違った。

さて19世紀から20世紀前半までを終始してご退屈様。一足飛びに今の私は、昨年は欧州合同三田会に、今年は上海三田会との交流に参加して半分妖精か魔女の気分である。
(終り)