連載 社中の心

シリーズ第10弾

藤田 克雄
(昭和37年 商)
2005年8月号~連載中

第1話
デカンショ節
第2話
恐怖の選考進級
第3話
心配りは社中のDNA
第4話
福翁百話

2005年8月号

デカンショ節

慶応へ進学しようと心に決めたのは、高2の初め頃。東京の空気を長く吸っていた母親が慶応びいきだったこともある。高校は下関で同じクラスに中部幸次郎君と云うのがいて、2年後輩に弟の銀次郎君がいた。幸次郎君は共に慶応に進学し、彼はゴルフ部で活躍した。その後の銀次郎氏の活躍ぶりについては言うを俟たない。

幸ちゃんは慶応のすぐ裏の広い敷地に家を建ててもらって、親戚のおばさんにお世話になっていた。別棟は麻雀専用で、そこで天丼をとってよく徹夜をしたものだ。明るくて素晴らしい人間性をもっていたが、残念なことに30才前に早世した。亡くなる1週間位前に、下関から電話が入り「あの頃は楽しかったなあ」というのが最後で、今も耳を離れない。心に残る友人だった。

入学して、まともに授業に出たのは、一学期だけ、格好つけていうと社会勉強に精を出す。馬鹿げたことも山程あるが、いろんな出会いや経験すべてが、自分を成長させてくれたと思う。後悔もないし、むしろ若い時は遊ばなくてはと、今でも思っている。

しかし、試験には困った。授業には出なくとも、雀荘には出席していたので、試験前にはノートを借りて一夜漬けをした。今みたいにコピー機でもあれば、随分楽だったのに。ある時、東京出身の奴が「おい、ドイツ語は大丈夫か」と聞く。大丈夫な筈がないと答えると、一緒に付き合えという。ジョニ赤を1本用意して、どこへ行くのかと思ったら、ドイツ語の先生の家だった。都会の子は、要領が良いと感心した。二人で平身低頭、今後の改心を誓って「今回だけはどうぞ単位を・・・」そんなことで折れる先生ではなかったが、「定冠詞ぐらいはきちんとネー」。よし、これをきちんとしよう。やってみると覚えるのもなかなか面倒だ。英語ならすべてTHEで済むのに、性とか数とか格で変化する。

ところがである。「何事にも先達はあらまほしきことなり」先人の知恵は凄い。「これは、デカンショ節で覚えるのだ」という。やってみると、いっぺんで覚えたどころか、今だに鼻歌で出てくる。ドイツ語で得たものは、これだけかと思うと、少々胸が痛む。

♪♪
DER(デア) DES(デス) DEM(デム) DEN(デン)
DIE(ディ) DER(デア) DER(デア) DIE(ディ)
ヨイヨイ
DAS(ダス) DES(デス) DEM(デム) DAS(ダス)
DIE(ディ) DER(デア) DEN(デン) DIE(ディ)
ヨーイヨーイ・デッカンショ
♪♪

2005年9月号

恐怖の選考進級

「選考進及」この言葉さえ知らない幸せな人も多いと思うが、私は二年と三年に進及する時に体験した。忘れたけど何かの単位を落し追試を受けるのだが、合格なら進及、不合格なら落第となるのである。春休みになり帰省するものの、結果が郵送される頃になると、通知を自分で受け取るために、外出もせず、ソワソワと郵便を待つ。漸く着いた「慶応義塾」の封筒を気合いを入れて「エイッ」とあける。「選考の結果、進及とする」という文字を見た時に広がる安堵感は忘れられない。それからが、春休みだった。

「トラウマ」を辞書で見ると「あとにまで残る、激しい恐怖などの心理的な衝撃や体験」とある。当時はそれ程にも思わなかったが、トラウマとして残った。卒業後二十年位までは、年に一~二度落第の夢を見たのではなかろうか。「しまった」と思って目が覚め、現実に戻ってホッとする。

先日、クラスの仲間が三人やってきて、楽しく食事をした時、この話をしたら、選考進及仲間だったひとりが、今でもまだ夢を見るといっていた。上には上があるというか、下には下があるものだと思って同情するやら大笑いやら。

三田に移って、そろそろ変わらなければと思っていた或る日、何気なく掲示板を見ると「日本語学校インストラクター募集/アメリカ大使館」というのが目に入った。アルバイトの経験はなかったが、時給五百円というのは、当時の相場の倍、面白そうなのでひやかし半分で、試験場の明治大学の講堂に行ってみると、あちこちの学生で溢れかえっていた。後で聞くと六百人以上の応募者だったそうだ。試験は英語・国語・小論文と、どちらかというと得意科目。二次の面接もあって、思いもかけず七人の合格者に入った。うち塾から三人。

それからというもの、学校にも碌に行かなかった怠け者が大変身で、毎朝六時頃起きて、虎の門のアメリカ大使館、日本語学校に八時から十二時までの四時間勤務。自分の試験以外は、遅刻・欠勤なし。生徒は大使館員と家族、初級クラスから上級は読み書きの出来る外交官までいて、そんな人は個人レッスンで、テキストはその日の「天声人語」。この言いまわしはどんな意味?などと質問がくるので油断できない。電車の中で予習した。中には落ちこぼれる人もいて、頼まれて宿舎にレッスンに行った。この時は食事付で時給千円で二時間位教える。日本人の所得水準がまだまだ低い時で、今の中国みたいな感じだったと思う。こんな状態だったから午前中は登校できず、午後の授業、ゼミは出席、後は雀荘に行ったり、その他イロイロで忙しくなり、それなりに充実した毎日になってきた。

この日本語学校が毎日、朝早くから始動するという勤勉な?リズムを作ってくれたのか、以後低空飛行とは縁が切れた。

ところでアルバイトのペイの話で恐縮だが、毎日四時間で、一ケ月四万円超となり、親からの仕送りも入れると、急に成金みたいになった。その筈なのに、いつもピーピーしてたような気がする。一体どこへ消えたんだろうと今でも不思議に思うことがある。因みに、就職して初任給は一万八千五百円の時代。

2005年10月号

心配りは社中のDNA

ゼミに入り、五代友和君に出会う。育ちの良いKOボーイという感じで、さぞモテたことと思う。彼と二人、先輩によく誘われて麻雀に付き合わされた覚えがある。レートが高くても平気な顔をして結構負けなかったから誘いやすかったのだろう。この時、十五年後に神戸に縁もゆかりも無い私が、彼に再会し随分と世話になる運命だとは夢にも思わなかった。

 卒業後「日本ゼオン」という会社で十五年間お世話になった。塩ビ・合成ゴムのメーカーで人間関係にも恵まれ、営業・人事と楽しく仕事が出来たし、実績もまあまあという実感を持っている。図らずも神戸で自営の道を歩むことになったが、神戸の持つ開放的な風土に、つくづく助けられたと感謝している。そして大きな支えになって頂いたのが「神戸慶應倶楽部」である。

入会した時は浜根会長で、実に抱擁力のある楽しい雰囲気を醸し出す素晴らしい方だった。少しばかり口が悪く「アホ」とよくおっしゃっていたが、ニコニコしながら慈愛の
こもった発音なので、言われた方は気を悪くするどころかみんな嬉しそうな顔をしていた。 同時に「心くばり」の達人。私は浜根会長に廣野ゴルフ倶楽部へ推薦して頂いたが、理事長面接の日程が決まりましたとご報告すると、喜んで下さり「面接に行く前に僕の処にちょっと寄れよ」と言われご訪問したが、それとなく気力とか服装などをチェックして頂いたのだと思いその思いやりに心の中で感謝申しあげた。

 ついでに、先代の乾理事長の面接を少しご紹介すると「浜根はこれまでギョーサン、慶應の連中を紹介してきたが、碌なのは居らん。君は少しマシそうやな」お二人とも口の悪さを装って、人を蕩かす名人だった。

 浜根会長以降、森・上島・和田・五代会長と続いているが「心くばり」が素晴らしいということ、加えてユーモラスな「口の悪さ」ということにも、大きな共通点を感じる。
私の現在の仕事は「インテリア材料の卸売業・内装工事・リフォーム業」といったところだが、早いもので三十年近く経過した。業界の世話役も勤めてきたことから、昨年の春「黄綬褒章」を頂き、夫婦同伴で皇居に行き天皇陛下からお言葉を賜わった。戦後教育の私には特に感懐めいたものは多くなかったが、受章発表の日に届いた一通の祝電には、心を打たれた。それは、塾長からのもので「あゝ、母校はここまで心くばりをしてくれている」という想いだった。

 福澤先生は「独立」についてこう説かれている。「独立にも心身二様の別ありて、まず一身の経済の独立、これを身体の独立といい、社会の交際、処生法にわが思うところを言い、思うところを行ない、秋毫の微も屈することなきを、心事無形の独立という。」

 「心くばり」とは心身の余裕、まさに独立のなせる業であろう。

 ならば、神戸慶應倶楽部の歴代の会長に代表されるように、また、母校の「心くばり」を想う時、これは「独立自尊」を建学の精神とする我が慶應義塾のDNAかとさえ思うのである。

2005年11月号

福翁百話

私は座右の書と聞かれるなら躊躇なく「福翁百話」を挙げる。

 その序言にいわく。
「余は元来、客を悦んで交わるところすこぶる広し。客散ずれば一時の雑話これを意に留めざるの常なりしかども、さりとは残念なりと心づき、かって人に語りしその話を記憶のままそれこれと取り集めて文に綴り、およそ百題を得たり。(中略)読者もしこの漫筆を見て余が微意のある所を知り、無形の知徳もって居家処世の道を滑らかにし、一身一家の独立よく一国の基礎たるを得るに至らば望外の幸甚のみ。」明治29年2月15日 福沢諭吉 記 

実に一世紀を越える昔に説かれたものが、今そのままに人生訓として生きている。序言を読んでも、福翁の気合いが伝わってくるではないか。文意は明快、ユーモア、風刺が効いて思わず吹き出すこともしばしばである。

 ご承知かと思うが、教育論喧しい昨今、敢えてその辺の一話をご紹介したい。
「身体の発育こそ大切なれ」(31話)

「父母の子を養育するはもとより天然の至情にしてまた義務なり。その法いかがすべきやというに、まず第一に子の産まれ出たる時は、人間の子も一種の動物なりと観念して、その知愚如何は捨てて問わず、ただその身体の発育を重んずること牛馬犬猫の子を養うと同様の心得をもってして、衣服飲食の加減、空気光線の注意、身体の運動、耳目の習養等、一切動物の飼養法になろうて発育成長を促し、獣体の根本すでに見込みを得たる上にて徐々に精神の教育に及ぶべし。

  ――(中略)――  

 とにかくに身体は人間第一の宝なりと心得、いかなる事情あるも精神を過労せしめて体育の妨げをなすべからず。わかり切ったることなるに、父母のみならず、教育専門の人までもこれに心づかずして、幼少の時よりむつかしき事を教えて子供の心を労せしむるに憚らず、よく合点すれば怜悧なる子なりとて誉め囃すのみならず、少し稽古に怠れば叱ることさえあるゆえ、子供心にも人に誉められんとして自然に勉強の念を起こし、次第にその習慣をなせば身体の衰弱を覚え、食物に常なく、いよいよ活動を嫌い、ようやく成長しても友達と群れをなすこと能わずして独り読書に耽るのみ。

父母はその病身なるを心配するとともに、またその勉強するを見てひそかにこれを悦び、わが子は他の群児に異なりとてなお得意なる者多し。実に沙汰の限りにしてかかる子供が成年に至るまで斃れざるこそ不議なれ。たとい僥倖にして存命し、所望のとおりに学業を卒りたればとて何の役に立つべきや。家のためにも国のためにも無用の長物というべきのみ。まず獣身をなして後に人心を養えとは我輩の常に唱うるところにして、天下の父母たる者は決してこの旨を忘るべからず。注意に注意してなお足らざるべし。」

 私が転職したのは37才の時で、若気の至りであったが「事物を軽く視て始めて活発なるを得べし」(13話)に勇気づけられるところ大であった。「人間の心がけはとかく浮世を軽く視て熱心に過ぎざるにあり」と訓える。
読むほどに、繰りかえすほどに我が意を得たりの感が深まる百話である。
処世の道・・・そう、人生には就職、結婚などを始めとして数多くの選択に遭遇する。これまでに私の最良の選択のひとつは紛れもなく慶應義塾を母校としたことだ。

 「あゝ、美しき三田の山 第二の故郷三田の山 共にむつみし幾年は 心に永くとどまらん 月去り星は移るとも 夢に忘れぬその名こそ・・・・」
卒業以来、今日までの社中の関わりあいに深い感謝の念で充たされるのである。
(終わり)