連載 社中の心

シリーズ第12弾

2006年8月号

『人生の愉しみ』(その一)

私が「絵」に興味を持ったのは中学二年生の時でした。国文の先生が絵画も教えておられたんですが、そのお人柄に惹かれ仲間数人で絵画部を作って欲しいとお願いし、石膏デッサンから始めました。大きなデッサン用紙に木炭でビーナスやブルータスの石膏を素描するのです。消しゴムに代わるものが食パンで、昭和二十年代のことですからぜいたくなことでしたが、食パンの耳は勿論お腹の中に、中の柔らかいところを手でこねて消しゴムのように使うのです。その木炭一本で石膏の人物の丸みというか厚みというかをしっかりと表現する稽古です。

受験勉強をしながらも水彩画や油絵もやっていましたが、慶應に入って早速パレットクラブという絵画部に入りました。入学したのが昭和三十三年、丁度慶應義塾創立百周年の年でしたが、その記念行事の一部で日吉のグランド奥にアトリエが建設され、それを使うことが出来ました。パレットクラブには卒業後も「OB」をもじって「応美会」というのがあり、年に一度の「応美展」などの活動をしています。

神戸慶應倶楽部でも、数年前に当時の芦原幹事長からの要請で、今の「イーゼル会」が出来ました。私の古い友人で、東京芸大油絵科卒業の梅地先生に講師をお願いし、月二回の例会はなごやかに、楽しくそれでも仲々上手く描けない苦しみと戦いながら二十人程の仲間が出来ました。

今は水彩を中心にやっていますが、やはり自分で描くことを経験すると、いろんな展覧会で著名な絵を見ても見方が変りますね。「絵」の楽しみは色をつくる楽しみでもあります。新緑の季節に郊外でスケッチなんかの場合はいろんな緑が一杯です。そのいろんな緑を表現するのは何とも言えず楽しいことです。

私もよく海外に出ますが、やっぱり絵になる風景といえばヨーロッパですね。アメリカもオーストラリアもハワイやグァムも或いは東南アジアも絵を描くという意味では面白くない所です。油絵も水彩画もそもそもヨーロッパで生まれたということが関係しているかも知れませんが、とにかくヨーロッパは色も形も何か均整がとれているんです。右を見ても左を見ても絵になるんです。

そしてこの日本、我々の日本も絵になりますね。特に四季のある日本は素晴らしい自然がまだまだ一杯あります。春の桜、秋の紅葉に代表されるこの美しい日本の国をこれからも皆んなで大切に残していきたいものです。

(2005年11月号掲載)

つづく

2006年9月号

『人生の愉しみ』(その二)

有馬温泉に秋の紅葉で有名な瑞宝寺があります。寺の奥には鼓が滝という少し小ぶりだけれど美しい滝があります。その瑞宝寺の庭園に永い年月風雨に打たれたのでしょう、角が丸くなった石の基盤が置いてあります。聞くところ、温泉好きの太閤秀吉がよく有馬に来てその「石の基盤」で楽しんだようです。

囲碁は古く中国で生まれ、韓国を経て日本に渡来しました。その後、日本ではお殿様の前で模範対局をする「お城碁」など一つの文化として定着しました。近年は英才教育をすすめる中国や韓国に、国際戦では引けをとっていますが、今やヨーロッパ、アメリカ、はじめ世界各国に囲碁は普及しています。

囲碁は最初のとっつきが悪いというか難しいものですから、囲碁を知らない人から見ると白と黒の石がバラバラあって何のことかさっぱり分からないということになります。でも囲碁から出た熟語というか、ひょっとして人生訓というものが結構多いんです。

一寸考えて思い当たるものだけでも

(1)じょうせき定石…そんなの定石じゃないかということ多いですね。

(2)ふせき布石…これがしっかりしてないとうまく事が運ばない。

(3)すていし捨石…には人生の中にもありますね。

(4)いちもく一目置く…私の周りにもそんな方が一杯いらっしゃる。

(5)おかめ岡目はちもく八目…当事者でないからよく分かるなんてことしょっちゅう。

(6)白黒つける…はっきりさせるという意味。

(7)大局観、着眼大局、着手小局…これを必要とするケースはほんとに多いですね。

(8)死活問題…石の「活き死に」が勝負所なんです。

(9)先手必勝…将棋でも同じ、人生の勝負でも同じ。

(10)局面…政治の世界でも、経営の場合でも厳しい局面てのは多いですね。 等々です。

見た目では白い石と黒い石のゲームだけのことですが実に多くの示唆を与える言葉が生まれて来ているんです。奥が深いゲームなんです。

「先を読む」ことをすごく必要とするのですが、私のようなヘボ碁打ちの場合は考えているとすぐ又元に戻ってしまいます。世の中には先見性のある方がいらっしゃるようですが、私なんかは精々五・六手まででそれも所謂「勝手読み」なんです。仕方なしに私は手を読むことはほどほどに「形」を覚えて打つようにしています。

ところで人生にも「あるべき形」というのが多くありますね。今の時代、考えられない凶悪な事件が続くこの時代に一番必要とされる「あるべき形」は「思いやり」や「長幼の序」だと思います。他にも大切なことはたくさんありますが守銭奴というのでしょうか、時代の窮児ともてはやされて、金を儲けて何が悪いと毒づいてお縄になった輩が現れるこの時代、曾てあったこの日本の節度ある民の心をもう一度取り戻したいですね。

話は戻りますが、神戸慶應倶楽部に囲碁同好会があるのをご存知ですか。月一回の例会には理工学部囲碁同好会の方々や宝塚慶應倶楽部、最近では大学の囲碁部OBの会とも交流しています。又、日本棋院の女流、水戸夕香里三段にも年二回手ほどきを受けています。水戸先生は優しくて厳しくて、でも、とにかくほんとに素敵な美人の先生なんです。(編集部注・八月号同好会便りに写真掲載)

毎月第一金曜日の囲碁例会を皆さん一度覗いてみませんか。

(つづく)

2006年10月号

『人生の愉しみ』(その三)

今やゴルフを楽しむ人は多い。

世界中のゴルフコースと名のつくところは、少し古いが一九九三年のデータで、アメリカ一八〇〇〇、イギリス二〇〇〇、日本一八〇〇、その他オーストラリア、カナダ、ヨーロッパ諸国等で二〇〇〇、合計二三八〇〇ヶ所とある。

十年余り経過した今、日本のゴルフ場は二四〇〇ヶ所と言われているからゴルフ新興国の中国まで入れるとかなりの数になっていることだろう。

この機会に少しゴルフの歴史をふり返ってみたい。十二世紀か十三世紀、正確には定かではないがゴルフの聖地と言われるスコットランドの「セント・アンドリゥス」付近の牧童か、その近くのフォース湾の漁師達が、丸い形をした小石か又は木製のボールのようなものを作って、先の曲がった木製のスティックで打ち、離れた所の兎の穴に「少ない打数で入れた者が勝ち」という極めて単純な遊びが数百年の歴史を経て現在のゴルフになり、スポーツとして確率されたようだ。ゴルフの総本山、発祥の地、或いは聖地とも言われるその「セント・アンドリゥス」は一七五四年に創立された「ロイヤル・アンド・エンシェント・ゴルフクラブ」の本部で今日世界中のゴルフコースの基準が十八ホールとなったのは、一七六四年にこのオールドコースをそれまでの二十二ホールから十八ホールに減らしたことに起因している。

実は私も一度この「セント・アンドリゥス・オールドコース」でプレイしたことがある。今から丁度二十年前の一九八六年四月初めのことで、リンクスつまり直訳すると「海岸の砂地地帯」特有の四月に入っているにもかかわらず猛烈に冷たくて強い風に悩まされながらのラウンドだった。ところがなんと重い貸しクラブを使ってのラウンドなのに八十八のスコアでホールアウトし、一緒にプレイした当社と取引のある地元の会社の社長に「ナイスゴルフ」と絶賛されて大いに気をよくしたものである。このコースに関して私が鮮やかに記憶していることの一つは、十八ホールに対してグリーンが十一しかない。単独のグリーンは四ヶ所で七つのグリーンは二ホールの共同である。そしてそのグリーンは殆んど粘土質の土そのものの印象を受けたことだ。あと一つはロッカールームで二段になった古い木製のそれには曾ての名プレーヤーの名前が冠されていた。球聖ボビージョーンズにはじまりベンホーガン、サムスニード、アーノルドパーマー、ジャックニクラウス等々である。

そのゴルフが日本に入って来たのは一九〇一年(明治三十四年)でご存知アーサーグルームが六甲山に作った四ホールの「神戸ゴルフ倶楽部」である。翌々年一九〇三年(明治三十六年)に九ホールになった我国第一号のゴルフクラブである。私がゴルフを始めたのは二十四・五才頃だから、かれこれ四十年以上前になるが、当時布引の山に「神戸カントリー」という一応十八ホールだが殆んどがパー三の上り下りの激しいコースであった。無理な造成だったために一九六七年(昭和四十二年)の大雨による山崩れで多くの犠牲者を出してつぶれてしまった。

その後、仕事関係のつき合いや、先輩、後輩を問わず多くのゴルフ仲間とプレイして来たが、練習もろくにせず、おまけにあきらめの良い(?)ゴルフのため結局シングルプレーヤーになれなかった(今は下がる一方)が、ゴルフを通して得た多くの知己やスポーツとしてのマナーや我慢のことなど学ぶことも多々あった。

長い人生の中で強い記憶にあることの多くはつらかったことや苦しかったことだが、ゴルフに関してだけは百ヤードを残したパー五の池越え第三打が直接カップインしてイーグルを取ったことなど好いことだけなのは何故なんだろう。

が、なんといっても春や秋のさわやかな季節に緑の中を新鮮な空気を一杯吸って歩けることがゴルフの醍醐味かも知れない。ゴルフはよくその人の性格が出ると言われるが「又あの人と一緒にプレイをしたい」と思ってもらえるプレーヤーになりたいと心懸けている。

(つづく)

2006年12月号

『人生の愉しみ』(最終回)

「生き甲斐っていうのは健康であってこその話よね」
過日九十八才の天寿を全うした母が私を諭すように言ったのが耳に強く残っています。
人が生を受け、晩年に至るまでの間、学び、働きそして趣味に励んだりの繰り返しをするわけですが、この「生き甲斐」「働き甲斐」と」いうのは一体どんなことを指すのでしょうか。

あなたは何を生きがいにしていますかと問われた時、あなたは何と答えますか。 「家族」だと答える人、「仕事」だと答える人「趣味の盆栽」だと答える人、何であれ、そんな具合にすぐに答えられる人は幸せなのかも知れません。あれも生きがい、これも生きがいという意味ですぐに答えの出ない人もいるかも知れません。サミエル・ウルマンではありませんが、夢を失くした時に老いは始まるでしょうし、生きがいを持たなければ早く老いてしまうのではないでしょうか。

あまり自分の年令のことは考えたくもないし言いたくもありませんが、今年で満六十七才を迎えました。勿論、いわゆる戦前の生まれですから、小さい頃は食べるものにも事欠く時代でした。米粒にはめったにお目にかかれない、主食は殆んど「さつまいも」でした。
そんな日本中が貧しい時代から、この豊かになりすぎておかしくなってしまった今の時代まで、それでも一所懸命に生きて来ました。いや生かされて来ました。両親や兄弟、いろんな先生方や多くの先輩、友人、お取引先のいろんな方々に支えられて生かされてきたと思います。

人生も明らかに第四コーナーに入った今、一所懸命生きてきたけど、でも一体何を「生きがい」にして来たのかと自問した時、あれこれ迷っても尚、すっと答えが出て来ないんです。

仕事にしろ、趣味にしろ、家族のことにしろその時々精一杯努力して来たことは間違いなくても、それが「生きがい」だったかと聞かれると自信がない。人生を生き生きと送るためには、まず第一に健康があり、それをベースにして「生きがい」をしっかりと自分で見つけなければいけないんでしょうね。それも趣味などで得られる喜びや楽しみも良いが、人のために何かをする、人のために何かを与えることが出来るのか どうもこの辺が「生きがい」のポイントなのかも知れません。 これがほんとの生き甲斐につながるもので、豊かな人生を送るための要点になるのでしょう。

柄にもない生真面目なことを書いてしまいましたが、この「生き甲斐」を私なりに再発見して健康な心身をもとに、人生の愉しみをこれからも追いかけていきたいと思っています。

2005年11月号掲載

《今月の絵》

(おわり)