『私の教育論』
第二次世界大戦後、世界は冷戦時代に入り緊張した状態が続きましたが、その中で自国の教育政策を見直す動きが出てきました。
一九六〇年代から七〇年代にかけて、欧米各国では子供は善なるものだから、自由にしておけば新しい可能性が育つと考え、教育現場から様々な規制をなくしました。その結果欧米の学校では、現在日本が体験しているよりももっと凄まじい混乱が始り、学力の低下、校内暴力、犯罪などが多発したのです。
しかし、一九八〇年代に入り、社会全体に猛烈な反省が起りました。米国ではレーガン政権、英国ではサッチャー政権の時代に入り、両国とも教育政策を見直し勇気をもって色々な障害を排除して成果を得たのです。
現在、日本では個性を伸ばすという方針のもと「ゆとり教育」の充実を図ろうとしておりますが、米国、英国の経験に学び、早急に義務教育の根本的改革に取組まねばなりません。そして、子供たちが日本人であることに誇りを持ち、世界中の人たちと自信を持って協力し競争していくことができるような国にしていかねばなりません 最後になりましたが、私の「教育論」を申し上げて会報投稿の責任を果たさせて頂きます。
『教育とは人間を育てる肥料である。教育と肥料の違いは肥料は単なる物質であるが、教育は人間によって人間を育てるものであり、人格を通じて行うものである。従って、人格が存在しないで行われるある種の教育は単なる知識の切り売りに過ぎない。
肥料を施す対象となる人間をどう見るか。
人間はその育った環境あるいは遺伝等によって色々な個性を持った人が育つ。字が読めなくても、道徳の片鱗を学ばなくても、善人の一団があり、また最高の教育の受けた人々のなかにも、本質的に悪人の一団がある。そして残りの大部分の人々は灰色の中間色であり、自らを取巻く環境によって、ある時期には灰色が黒さを増し、ある時期には白さを増す。これが私の人間観である。
このような観点に立って人間に対する教育のあるべき姿を考えないと所期の目的は達せられないし、平和な明るい社会を創りだすことは不可能である。
教育には大体三つの種類、即ち体育、徳育、知育がある。体育、徳育のような肥料は植物の成長期に施す窒素肥料であり、幼年期、少年期という肉体の成長期に施さなければその成果は乏しい。とくに徳育はむしろ、胎児の時から始まると云って良い。体育にしても中学高校時代を過ぎればその成果は著しく減殺されるが、知育は学生時代から社会人となっても年齢に影響されることが少なくその有効期間は長い。果実を結ぶ加里肥料のような性質を持っている。
この様にいずれの種類の教育でもその施肥の在り方、分量、時期を考えて有効に作用するよう努力しなければならない。たとえば、スポーツや趣味の同好会への参加など集団的行動の中で「人のふり見て、わがふりを直す」式の行動を通じ、自然に体得させる方法を見つければどの教育も人間の一生を通じて有効に作用するものである。そしてこの世に生を受けたことを感謝するとともに、常に自省自戒し努力を続けて行くことが大事である。』
会員の皆さんの、益々のご健勝とご健康を心からお祈り申し上げます。 |