『三田の福澤先生と三田の九鬼藩主』(中の巻き)
話を文久三年(一八六三)に戻す。その年の六月、幕府の奥御医師に任じられていた緒方洪庵が五十四歳で亡くなった。もともと身体の弱かった洪庵には激務がたたった。同じ幕府に仕えて得がたい親友の死を聞き、近くの群書調所に勤務中の川本幸民は直ちに馳せつけ、洪庵の妻八重さんを慰めた。八重夫人は三田の隣村名塩の出身である。
洪庵の通夜の席には、洪庵の高弟である若き福澤諭吉や、同じく高弟で諭吉より十歳以上年長の村田蔵六(のち大村益次郎・明治維新の軍政家)らもいたが、ふとしたことから二人の間で激しい口論が起こった。その時二人の間で仁王立ちになって仲裁したのが幸民である。
それから三年後の慶応二年、幸民は若い藩主九鬼隆義に、画期的なスナイドル銃(元込めで銃身内につる巻き線の溝賀ある)を藩士全員のため購入するよう建策し、藩主に容れられた。
慶応四年(明治元年一八六八)戊辰の年を迎え、正月三日に鳥羽伏見の戦いが始まった。幸民は自身が幕臣のままで江戸に留まっていては三田藩に悪影響を及ぼさないか心配していたが、上野の彰義隊は僅か一日で敗れたので、その年七月、幸民は五十八歳にして三十三年ぶりに再び故郷三田の地を踏んだ。そして、まず英蘭塾の開校にとりかかった。
明治二年六月、三田藩は版籍を朝廷に奉還し、藩主九鬼隆義は藩知事となって新たな決意のもとに民政に臨んだ。特に隆義は新時代に対応する方策として、川本幸民と嗣子清次郎(のち清一と改名・開成所英学教授)の英蘭塾を充実させた洋学校の設立を急務と考えた。
幸民の弟弟子である緒方洪庵は福澤先生の師である。師の洪庵も一目置いていたこの先達を福澤先生は大変尊敬し、しばしば学問上の相談を寄せていた。次第に二人の仲は深まり、ある日幸民は諭吉を隆義に紹介したというわけである。幸民が予期した通り、隆義は諭吉と意気投合し、その関係を生涯大切にした。
隆義は福澤先生の強い影響を受けて、藩内の一般男子に洋服を着用させ、牛肉を常食、洋書を通読させたほか、洋式操練では最も進んでいたといわれる。
また、洋学校は福澤先生の賛同を得て、洋書・機械類を横浜の丸屋(現丸善)から購入するなど、関西における洋学の先駆けをなそうとした。しかし、その年十一月に藩内で起こった百姓一揆で洋学校設立は消滅してしまった。後年、これが三田学園となって実を結ぶ。
明治三年、福澤先生は隆義に『世界国尽し』一冊を贈って、「領民騒擾いたしたのは無知無学の致すところ如何ともすべからず、今この貧民を救わんの策は金を与えるよりは、知識を研き見聞を博するための書を読むを専一とす」としたためた。これによって隆義は丸屋より『国尽し』一冊金壱両壱分を二百冊買入れ、領内の郷学校・市学校に頒けた。この後も九鬼隆義と福澤諭吉の関係は続き、慶應義塾の規模拡大に必要な資金について福澤先生は隆義にしばしば援助を依頼したという。
明治四年、三田藩知事九鬼隆義は早くから時世の推移を看て取り、各藩に率先して帰農を奏請したのは、福澤先生の思想を受けたもので、七月に廃藩置県により藩知事を免ぜられた。
同年三月、福澤先生は慶應義塾を新銭座から三田に移した。作家の司亮一は、「福澤が三田の地名に親近感を覚えたのではないか」といっている。その年六月、川本幸民は六十一歳で亡くなった。その頃、旧三田藩から慶應義塾に入ったのは前田泰一・武藤敬蔵・澤茂吉・川面弘らである。
(つづく) |