「緒方洪庵」に学ぶこと (その四)
洪庵開業の報が伝わると、長崎時代の同窓や江戸の書生たちが教えを乞いに来た。洪庵塾とも、緒方塾とも呼ばれる「適塾」の始まりである。
適塾の意味は「自分の適とすることを適とする」という意味から名づけられた。適とは、まっすぐに向かって行くとか、心にかなうという意味である。適塾は、他の制約を受けず、思いのままに勉強する自由の徒の集まりだった。福沢諭吉の「独立自尊」も、同じ意味である。
「適塾」には、やがて全国から蘭学を学ぶ熱意に燃えた若者たちが集まり始めた。適塾の姓名録には、遠く津軽や対馬の地の記録が見られる。江戸の書生が大阪に来ることはあっても、大阪から、わざわざ江戸に学びに行くものはないとうわさされるほど、適塾の人気は高まった。
洪庵は、中天遊という学者が開いていた、蘭方医学の塾に入る。医学と共に、物理や化学も学んだ。後に、医家となった洪庵が開いた「適塾」が、医学だけを教えるのではなく、広く科学や兵学までも学ぶ塾であったのは、中天遊の影響であろう。
医業も繁盛し、場所が手狭になり、地下鉄淀屋橋から徒歩二分の現存する適塾の場所に移転した。
おもしろい学校だった。入学試験はなく、ただ申し込めば入学が許された。学費は、月に米一斗五升。一人当たり一畳の居住空間と食費を入れての値段であるから、洪庵がいかに私財を塾に投じたかが解る。武士の子も町医者の子も農民の子も、いっさい平等だった。助け合い、かばいあいながら共同生活を行った。学問は、実力主義だった。洪庵は医家としても多忙を極めていたから、教えるのは、成績の良い塾生だった。
能力別に八クラスに分かれていた。ひとクラスは十五人前後。クラスで蘭書の訳読を行い三ヵ月上位を占めたものが上のクラスに進める仕組みになっていた。最上位のものを塾頭と呼んだ。
洪庵は、医業で得た金を惜しみなくつぎ込んで書生を助け、悲哀を共に泣き、喜びを共に分かち合った。
諭吉が腸チフスになった時のことである。洪庵四十七歳、諭吉二十三歳の春だった。
洪庵は、諭吉にこう言った。「私は、お前の病気を看てやる。しかし、薬を処方することは出来ない。なにぶんにも迷ってしまう。この薬あの薬と迷って、後悔するかもしれない。薬の処方は他の医師に頼む。そのつもりでいてくれ。」
後に、諭吉は、次のように書いた。
「緒方先生が私の病を看て、薬を処方するのに迷うというのは、わが子を治療するのに迷うのと同じことで、私を、家族のように思って頂いたことに感激しました。」
大病後の諭吉は、貧苦にあえいでいた。薬の一件の後、洪庵先生を親のように思い始めた諭吉は、何も隠すことはない、と、実情を打ち明けた。
洪庵は、苦学一筋の自分に恩情をかけてくれた江戸の坪井信道先生のことを思い出し、翻訳家という名目で、諭吉を学費の要らない食客生として雇うことにした。
乱暴者として名高かった諭吉が猛勉強を始めたのは、それからのことである。
「受けたことのすべてを恩返しする」「生まれてきたからには、人の役に立ちたい」というのが、少年時代からの洪庵の願いだった。洪庵は、多くの先生から学んだことを、いっそう輝かせて、諭吉をはじめ多くの若者たちにその炎を移し続けた。諭吉は、それをさらに輝かせて引き継いだ人間である。
塾社中の我々は、洪庵先生や諭吉先生の志をさらにさらに輝かせる責任があるのではないだろうか。
(2007年5月号掲載)
(終わり) |