「ゼミの想い出」(一)川田寿先生のご夫妻のこと
私は、一九五九年春に経済学部の三年生となり、日吉から三田へ、そして、川田寿先生のゼミに入会することになった。
このゼミを選択した理由は、まず第一に、先生の学生選別の基準が、様々な性格を持つ者を、できるだけ幅広く受け入れたいと、考えておられたことであった。地方出身者と都会出身者、根っからの慶應ボーイと外部からの入学者、Aの数の多い学生と、成績にそれ程拘らない学生、体育会系と文連系、無所属系、といった具合に、できるだけ多様なタイプの縮図を望んでおられた、つまり、異なるタイプの人間の交流が、民主社会の必要条件であると考えておられたことであった。
二番目の選択の理由は、先生の日吉の自宅を、学生達と卒業生の為に開放して、オープン・ハウス・デーを設け、交流の場を心がけておられたことである。
三番目の理由は、入会の為の試験がなく、先輩に、話し合いや面接をさせたこと、そして、卒論のテーマは自分の取り上げたい課題を自由に決められる、ということであった。入会の前に、先輩から、このような話を伺っていたこともあり、躊躇なく川田ゼミに入会させていただくことにした。
戦前のアメリカ生活が長かった川田先生は労働問題を専攻され、机上の学問ではなく、企業活動の実証研究の裏付けを踏まえて、労使関係を学ぶことを重視され、学生達にも、実態調査の実践を求められた。ペンシルバニア大学ウォートン・スクールで、修士課程を修了、ニューヨークを中心に労働運動を実践、研究された経験を持っておられ、帰国後、出身地の茨城地方労働委員会会長や、東京都労働委員会事務局長に就任された時期もある。
また、先生の戦前の学生運動での活動ぶりや、筋を曲げない信念を熟知していた革新陣営から、茨城県知事選出馬を懇請され、立候補し、混戦、決戦投票の末、僅差で次点に終わった経緯もある。慶應義塾の教職に就かれたのは、一九五一年であるが、故・藤林敬三経済学部教授(三井三池争議の時代の中央労働委員会委員長)と親交があった関係で、労働問題実証研究の目的で慶應義塾に設立された研究所「産業研究所」で、藤林教授の右腕となって協力された。
藤林教授急逝(一九六一年)後、このようなご縁から、藤林ゼミの学生が、川田ゼミに割り振られたという歴史もある。川田先生のように、アメリカの労働問題の真髄を、自分の皮膚で体験した学者は、日本では非常に少ないという評価であったと認識している。
ゼミの勉強もさることながら、私にとって何よりも想い出深いのは、先生ご夫妻の日吉山荘を訪れる、オープン・ハウス・デーであった。先生との談論風発の中から啓発され、薫陶を受けると同時に、アメリカで苦楽を共にされた奥様の、お手製のご馳走に毎回ありつけることが、当時の下宿学生にとっては、大変有難く、大きな楽しみの一つであった。子供のいないご夫妻は、私達学生を心から歓迎して下さり、寛大さと包容力をもって、ヒューマン・リレーションの大切さを教え、実践されたのだと思う。
教室での授業を離れて行う山小屋での合宿は、私の時代は、上高地や立山で行ったのであるが、教授夫人も参加して、学生達と交流する例は、あまりないのではないかと思う。ゼミの諸先輩、後輩の皆様と、今でも親しくお付き合い願えるのは、ご夫妻の意図された、交流の場、日吉山荘のお陰であると思っている。ゼミの卒業生で構成される五百人を超える「川田会」の交流は、ご夫妻の人格や生き方が、脈々と源流となり、余徳の輪を広げているように思われる。川田先生の指導を受けた島田ゼミや、孫ゼミに当たる清家ゼミの卒業生も、一部、交流の輪に加わっている。
先生の生き方は「己を尊び人を愛す」という言葉で残されているが、私達はご夫妻との対話の中で、人格や生き方について、特段、何か説教じみたことを言われた覚えはない。学生達の意見に対して、否定的な言辞も聞かされた記憶も無い。どんな話題にも耳を傾け、後から意見を言われた姿が目に浮かぶ。「己を尊び」という言葉は、自らに厳しく、自立、自律、自尊をもって行動するという、先生の強い思いであったと理解している。
茨城県にある川田家の墓所には、ご夫妻の墓碑があり、「川田寿1905-1979・川田定子1909-1999」と刻まれ、裏側に先生の経歴が書かれている。奥様の納骨式の日に、川田会として建立した石碑があり、「己を尊び人を愛す」と記されている。節目の墓参には、毎回、多数の川田会会員が参列している。
(2007年6月号掲載)
(つづく) |