第4話 神戸の鉄道史をたどれば (その四)
―阪急電車の市内乗り入れと各鉄道の伸展―
かねてから神戸方面への進出を目論んでいた箕面有馬電気軌道(大正七年に阪神急行電鉄と改称)は、大正五年(一九一六)に灘循環電気軌道(布引を起点とし山手を通過して西宮に至る)の敷設権を、阪神電鉄との間のかけ引きのうちに取得して傘下に収め、神戸東部の上筒井までを開通させたのは大正九年七月のことである。現王子公園駅の西、赤十字血液センターの辺りが終点で、三宮からの市電と連絡させた。阪神に比べて駅の数が少ない阪急神戸線の電車を「綺麗で早うてガラアキで眺めの良い涼しい電車」と宣伝した。レール幅は標準軌である。
ここで阪急電車の創業者というべき小林一三氏について触れておきたい。
小林氏は明治六年年(一八七三)山梨(一八七三)山梨県に生まれ、同二十五年慶應義塾を卒業後、三井銀行に十四年間勤務した。家族と共に大阪に転居してから阪鶴鉄道(現JR福知山線の前身)の監査役に送り込まれ、三十五歳で箕面有馬電気軌道の追加発起人となって専務取締役に就任した。動物園、野球場、百貨店、宝塚少女歌劇開設のほか、沿線の住宅地開発にも努めた。阪神急行電鉄(阪急)の社長に就任したのは昭和二年五十五歳になってからである。
阪神国道が昭和二年に27m拡幅延長したのに合わせて、阪神電鉄は阪神国道電車をわずか半年間の工事で東神戸(脇浜)―大阪野田間を開通させた。また、昭和八年(一九三三)になって阪神電車はようやく路面区間を廃止し、岩屋―三宮間の高架化計画は神戸市の反対により地下線として開通させた。これで梅田―三宮間が特急で35分となった。
省線は昭和四年灘―兵庫間の高架化によって、三ノ宮駅を東方へ約八百m移設した。翌五年十月一日から神戸―東京間に超特急「燕」号が九時間で走り始めたが、当時としては画期的なことであった。また、省線は同九年から十二年にかけて複々線の連続高架と電化が完成し、元の三ノ宮駅跡を元町駅として復活させた。京阪神間には急行電車を走らせて、大阪―三ノ宮間は24分のスピードを誇った。
一方、阪急電車は上筒井が終点では勝負にならないとして、西灘駅(現王子公園駅)付近から三宮駅へ高架新線を昭和十一年(一九三六)に開通させ、特急25分をアピールして対抗した。
阪急が三宮へ乗り入れした年、阪神は地下線を更に元町まで延長した。阪急は西灘―上筒井間の支線を同十五年に廃止した。念のため記すと、JRは三ノ宮、阪神と阪急は三宮が駅名となって今日に至っている。
ところで、前述の如く兵庫―姫路間の直通運転を果たした宇治川電気の電鉄部は、大正末期からの不況により、昭和八年に電鉄部門を直営からはずし、電鉄会社として分離した。やがて電力国家管理の時代に入り、同十七年には宇治川電気は解散となって、山陽電鉄は文字通り独立を実現したのである。片や神戸有馬電鉄では、昭和十一年に系列会社の三木電鉄を設立(戦後に合併)、印南野台地への進出を図った。
昭和十三年七月五日に起きた阪神大水害(谷崎潤一郎の小説『細雪』に出てくる)で各鉄道は甚大な損害を被った。その頃からわが国は次第に戦時色を強めつつあったのである。
(最終回) |