第 3 話 第七陸軍技術研究所の功罪 ─第五十七回目の終戦記念日に思う─
私はその時、第七陸軍技術研究所にいた。
それに先立つ昭和二十年三月の空襲で、東京はほとんど焼野原となった。その中で新宿にあった私どもの研究所は無傷のまま残った。「米軍はよく知っている。成果のあがらない研究所は爆撃しない」と、私どもは言いあった。
陸軍は、戦争が拡大してから基礎研究の立遅れを痛感した。各方面の大物学者を顧問に、当時の若手学者を戦場から呼び戻し、この研究所を作ったのであった。
かくて、プロジェクト研究が次々に発足した。そのひとつが(丸け)という暗号名のもとで、陰では「間ぬけの研究」と呼ばれていた。
(丸け)は熱線指向型ロケットで、軍艦などの発する熱を、ロケットの頭についたレンズがとらえ、それを追いかける。アイディアは最新式ロケットと同じであった。しかし精度がわるく、伊豆の初島近くの海上の仮想敵の焚火を狙ったはずが、熱海の旅館の温泉(やはり熱を発する)に飛びこむ、という珍事を起こして「間ぬけの研究」の名を高からしめた。
筆者は中国奥地の野戦病院から、東京新宿の陸軍の研究所に戻ってきた。太平洋戦争末期、昭和十九年九月のことであるが、実は陸軍省の「新薬」の開発研究を行うためであった。
この「新薬」は、東京大学薬学部の落合英二の合成したクリプトシアニン(虹波)という感光色素で、当時重大な問題であったハンセン病の治療(とくに筋麻痺など)に有望だと言われていたが,その作用のメカニズムはほとんど不明であった。
しかし、いろいろと調べてみて、筆者はアセチルコリン(神経ホルモンの一種)の分解酵素に注目するようになった。この酵素反応に、きわめて薄い「虹波」を加えてみると、アセチルコリンの分解は完全にとめられたのである。こうして、虹波はハンセン病の筋麻痺を改善するということにもなるのである。大変幸運な発見であった。
さらに、このような酵素実験により、すでに落合の手許で合成されていた約二〇〇種類以上の化合物についても、その作用との関係を調べあげることができた。終戦まであと数ヶ月の期間であった。これらの研究成績は、終戦直後、米軍に没収され、論文としては発表されていない。
しかしこの研究所には大きな功績が残った。それは、多数の若手科学者を戦場から呼び戻し、戦後の教育と研究の復興に、戦力として残したことであった。
数えあげるなら、田崎一二、冨田恒男、田中重太郎、そして不肖私も、この研究所の措置により、戦後復興への一兵卒として生かされた一人であった。この後、筆者が二系列、三種の新薬を世に送る研究に成功できたのも、この研究所の御陰なのかもしれない、と思うのである。
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