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社 中 の 心


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社中の心 目次へ



上島 康男
(昭和33年法卒)
2003年3月号〜6月号連載

第1話

福澤諭吉先生と食文化

第2話

神戸早稲田倶楽部と友好関係を

第3話

大先輩、故濱根康夫元会長

第4話
(最終話)

「福沢心訓は偽作」 

3月号

第1話 福澤諭吉先生と食文化

「福澤諭吉先生とコーヒー」と題して三田評論の二月号のコラムに寄稿しましたが、コーヒー普及の歴史を調べていると意外にも福澤先生のお名前が出ていて我が意を得たりでした。

我が国のコーヒー伝来は十八世紀にオランダ人が最初とされています。日本人はこの異国の飲料に大いに興味をもち、十九世紀の初めごろまでにコーヒーについては、植物学的な知識から焙煎やいれ方などの実用的な知識、あるいは世界のコーヒー地誌やコーヒーの歴史などの教養としての知識等を、当時としてはまことに正確かつ詳細に吸収していました。しかし、ヨーロッパのように直ぐ普及しなかった。実際に普及しだしたのは大正時代に入ってからです。

と云うのも、第一に嗜好の違いでヨーロッパ人の好ましいと感じたコーヒーの味や香りが当時の日本人に合わなかったからです。太田蜀山人でさえ「焦臭くて味ふるに堪えず」と書いています。第二は日本人はすでに久しく馴染んできた緑茶という嗜好飲料を持っていたこと。第三は「外国人のもってきたものはなるべく採用しない」当時の日本人の用心深さにあったようです。

牛乳普及のエピソードに「当時の人々には飲みにくかった牛乳にコーヒーを入れてミルクコーヒーにすれば飲みやすくなると云う素晴らしいアイデアを当時の人々に着想させた人は意外にも福澤諭吉らしい」とありました。
又、福澤先生が旅行訪問先のご友人へのお手紙で、自分の食物は朝・昼・夕三食共粗食でよいとされ、これは三、四十年来の習慣ですと書かれています。

そして「老生の食物は、朝、三州味噌の汁一品、少々濃くして肴も勝魚節も入れず、ねぎか豆腐の汁の實、之れ計にて一切外の物は不要なり。或は食前に牛乳に紅茶かコッヒーを加へ、パンにバタあれば最妙なり。宅にては毎朝用ひ候得共、旅中は必ずしも求めず」とあり、日常から大変モダンなお食事をとられていたことが察せられます。福沢先生は食文化の面でも先駆者でした。


4月号

第2話 神戸早稲田倶楽部と友好関係を

「平成12年の11月中頃、突然右膝に激痛が走り歩けなくなった。整形外科の診断では「半月版損傷」で、割れている骨を内視鏡手術して除去すれば痛みはとれるが、元通りになる保証はないとのことであった。

「百パーセント回復が見込めないのなら手術なしで癒すには?」と尋ねると、「(1)身長の割に体重(73s)が重過ぎるので減量すること。(2)脚の筋力の衰えからきているので鍛え直すこと。」との指導があった。
平成13年4月13日には広野ゴルフ倶楽部で恒例の慶早戦があるのでどうしても癒して出場し、会長としての責めを果したいとの一念から、私の挑戦が始まった。

(1)の減量には食事の量を減らすことに尽きるので、朝食は従来通りに、昼食はきっぱり半分に、夕食は軽めにとして徹底的に守り抜いた。毎月平均2sと順調に減量したが、4月に63sになった時、げっそり痩せたように見えたのか、多くの方々から病気ではないのかと気遣われるようになったのでストップし、少しづつ食事の量を増やし現在65sの自分としてはベストコンディションになっている。

(2)の脚の筋力強化だが、先ず痛みのある間はひたすらプールの中を歩いた。単調で退屈だったが癒したい一念で頑張った。やや痛みの薄らいだ2月頃から筋肉トレーニングを加えた所その成果は目を見張るものがあり、一日一日と脚の筋力がついてくるのが分かったので、プールと筋トレを交互に殆ど毎日続けた結果、辛うじてゴルフが出来るまで回復し、春の慶早戦に間に合った。

その間、神戸早稲田倶楽部の木下章夫会長が矢張り肩痛治療の為ご自分の通われている鍼灸の医師をご紹介下さった。正に上杉謙信、武田信玄に塩を送るではないが、温かい友情に感謝した次第。
慶早戦の結果はもちろん慶應の勝利だったが、個人の成績では木下会長が第一位になられ彼の面目も立ってよかったと思っている。
早稲田とは永遠の良きライバルとして友好関係を今後も是非継続して欲しい。

5月号

第3話 大先輩、故濱根康夫元会長

会長を退任してこの5月で早や一年となる。1970年神戸に戻り会社を設立したが、その時誰よりもお世話になったのが中学(神戸二中)、大学の先輩だった故濱根康夫元神戸慶應倶楽部会長だった。

我々会員は濱根大先輩の前では全く頭が上がらず、しかも大変辛口の方で、プライベートの席では常に「頭の悪いお前等は・・」から始まるのだが、何を云われてもただ黙って承るだけだった。しかしオフィシャルの場では銀行の斡旋でも普通ではとてもお目にかかれないクラスの方々(例えば頭取)をご紹介下さり、「この男は真面目で、努力家だ。俺の後輩だし名前も同じ(康夫と康男)だから間違いなく優秀な奴だ。どうかこの男を支援してやってくれ。」と親身になってお世話下さった。今厳しい状況下であるが盤石な銀行体制が現在とれているのも30年前に濱根様が根回しして下さったご遺徳と感謝している。

濱根様が体調を崩され退任された時、副会長だった私も進退を共にしようと心に決めていたが許されず、後日突然森様から会長のご指名を受けたが、これも天国からの濱根様のご下命と思いお受けした。そして会長に就任した時濱根様の足元にも及ばないが、先輩として後輩の諸君に何か自分が受けた恩返しをしたいと、ただそれだけを心にして務めさせていただいた。
先ず、倶楽部を先輩・後輩のへだてのない団欒の場にすることを志した。

退任の際に戴いた感謝状の一部を披露させていただくと、「・・・…例会においては、無類の酒飲み達を相手に一千万ドルの微笑で、酒も飲まずに相手をした離れ業は特筆すべきものであります。…”だった。嬉しい限りで、正に我が意を得たりだ。又先輩として後輩諸君からの仕事の相談事や依頼された事には微力だったが私なりに誠意をもって応えたつもりだ。在任5年の短い間だったが濱根様への恩返しも少しは出来たのではと思っている。

これからも引き続き倶楽部が先輩後輩の交流の場となることを祈って止まない。

6月号 

第4話 「福沢心訓は偽作」

三年前慶應連合三田会会長服部禮次郎様より送っていただいた『慶應義塾豆百科』の抜粋によれば、「世に『福沢心訓』なるものがある。全部で七か条からなり、「一、世の中で一番楽しく立派なことは一生涯を貫く仕事をもつことである」云々で始まるもので、福沢先生の数多い箴言のなかでも、今日では世人に最も良く知られた言葉となった。・・・(中略)・・・けれども残念ながらこの心訓は福沢先生の言葉ではない。

どこかの知恵者が勝手に、それもどうやら戦後になってしばらくしてから作り上げ、それをさも先生の発言であるかのように『福沢心訓』などと勿体らしく銘打ったにすぎない真赤な偽作である。・・・(中略)・・・『福澤諭吉全集』第二十巻の附録で、富田正文が「福沢心訓七則は偽作である」と断定した・・・(中略)・・・心訓の場合、「偽作だ」「偽作だ」と声を大にして訴え続けているにも拘わらず、これを福沢先生の言葉として受けとめて座右の銘にまでして下さる奇特な人の方が、偽作だとする関係者の否定をはるかに上廻っているのが現状・・・(中略)・・・少なくとも塾生のご父母・塾員諸兄姉にだけは、『福沢心訓』は偽作であることを今一度あらためて指摘しておきたい」とあった。

これはショックだった。先生のお言葉と信じ切っていたので皆様に配るつもりでカードまで作成していたが中止した。
二〇〇一年東京銀座と阪急梅田で開催された「世紀をつらぬく福澤諭吉―没後百年記念」の展示で、先生のご直筆のご教訓の数々を拝見したが、流石に内容・文体いずれも格調高く感銘を受けた。それに比し、謂ゆる「福沢心訓」として出回っているものは、ご指摘を受けて冷静に見ると、いかにも現代人向きの平易な表現であることから偽作であることは歴然としているにも拘らず全く疑いもしなかったのは、塾社中の一人として汗顔の至りであった。盲信程おそろしいものはない。何事も真実を探求し極めねばならないことを、あらためて福澤先生から教わった思いだ。

一月の新年賀詞交歓会でBRBの編者から三月から六月迄四回の寄稿の依頼を受け、例会に欠席がちですので、倶楽部の皆様と誌面で交流が出来るのは願ってもないことなのでお受けしたが、これで終稿です。
思いつくままに書かせていただいたが、これからも宜しく。

これは皆様もどこかで目にされたと思いますが、世に云う福沢諭吉の心訓です。先生の名を騙ったことは許し難いのですが、内容は人生の指針になりますので、参考迄に後記しておきます。

一、世の中で一番楽しく立派なことは一生涯を貫く仕事をもつことです
一、世の中で一番さびしいことはする仕事がないことです
一、世の中で一番みにくいことは他人の生活をうらやむことです
一、世の中で一番尊いことは人の為に奉仕し決して恩に着せないことです
一、世の中で一番美しいことは総てのものに愛情をもつことです
一、世の中で一番みじめなことは人間として教養のないことです
一、世の中で一番悲しいことはウソをつくことです
一、世の中で一番素晴らしいことは常に感謝の念を忘れぬことです

(最終回)