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倶楽部規約の改正により
財政基盤の安定化をはかる
濱根氏の評議員選挙運動と関西合同三田会の神戸開催という二つのビッグイベントを成功させた昭和57年(1982)は、神戸慶應倶楽部にとっては思い出深い年である。大がかりな準備活動を通
じて組織の活性化がはかられ、新しい世代がチームワークによって倶楽部を動かす時代への転機となった。昭和62年には、岡崎真雄氏が評議員に当選し、3期務めている。
こうした中で、平成元年(1989)6月、倶楽部の規約改正が実施された。寄付やオークションの売上げに依存しがちだった財務体質を、会費・維持会費を基盤とする健全な財務体質へと転換するための改正である。その結果
、それまで月額制だった会費・維持会費を年額制に切り換えることで集金を容易にし、また維持会費の1口当たりの額を下げることで維持会費を広く多数から募ることになった。改正により、翌年から倶楽部の収入は大幅に増え、倶楽部の財政基盤は安定化した。
翌平成2年1月には、神戸朝日ビルの建て替えのため一時移転を迫られることになった。移転には多額の支出が見込まれたが、幸いにも和田興産の協力により同社所有の「新栄ビル」に好条件で移転することができた。このビルへは神戸早稲田倶楽部も同時に移転した。そして、4年後の平成6年3月、旧朝日会館のイメージを残すエントランスが特徴的な新しい朝日ビルにそろって戻ることになる。
阪神大震災で慶應義塾から
貴重な義援金が送られる
平成7年(1995)1月17日午前5時46分、未曽有の阪神・淡路大震災が神戸を襲った。淡路島北部を震源地とし、マグニチュード7.2(推定)、最大震度7を記録したこの地震により、死者・不明5500人を超す尊い命が奪われた。戦後最大の惨事である。神戸慶應倶楽部も会員2名の命を失った。住居はもちろん、自社の社屋、設備を失った会員は枚挙にいとまがないほどであった。倶楽部ルームでは家具など什器が倒れ、破損した。
倶楽部事務局では、震災直後に電話での安否確認を試み、2月には会員全員にアンケート用紙を郵送し、被害状況の調査を行った。これをすべてコピーして全員に郵送し、会員が互いの安否や被害状況を知り、相互に支援するための情報を提供した。
関西合同三田会には、各地の三田会・慶應倶楽部を通じて塾より義援金が寄せられ、被災各地の倶楽部に配分された。神戸慶應倶楽部は被災状況に応じて個々の会員に義援金を配り、残金を倶楽部の備品修理や事務費などに充当した。
伝統を守りながら、より開かれた
"情報共有の場"をめざす
平成8年(1996)12月26日、昭和63年以来、脳梗塞のため闘病生活に入っていた濱根康夫氏が他界した。発病後、平成3年まで森隆氏が会長代行を務め、翌4年より濱根氏に代わって会長の座に就いていた。
12月初旬、自宅療養中の濱根氏を見舞った森会長に、濱根氏は開口一番、いつもの口調でこう語った。「お前達はいいなあ。お前達は頭が悪いから、わしのように脳梗塞にならんわい。わしのように頭がいいと、この病気になるんだよ」。葬儀の後、濱根氏は塾の三色旗に包まれて斎場に向かった。
平成9年6月、森隆氏の会長辞任を受けて上島康男氏が新たに会長に就任し、翌平成10年10月には濱根会長時代の初代幹事長を務めた瀬戸雄三氏が評議員に当選した。
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