会員便り(新入会員紹介)

2007年

2007年12月号掲載

≪塾野球史(昭和前半)をひもとく≫ ~兵庫県出身の選手を中心に~ 【第三回】

市居 嘉雄(昭29経)

◎昭和8年(1933)
<新入部員> ナシ
野球統制令施行の影響か、六大学当局は各校春1回宛、秋は2回宛の対戦で計15試合1年1シーズン制を実施した。慶應は7勝7敗1分で4位(立大優勝)。
10月22日に行われた慶早第3戦は8回まで8対7で早大リードの9回表、守備についた塾水原三塁手は、早大側スタンドから食べかけのリンゴが投げ込まれたのを拾って早大応援席へ投げ返したことから、興奮した早大応援団の一部が慶應応援団に押しかけ、塾長から贈られたばかりの指揮棒を奪い取る、いわゆる「リンゴ事件」に発展した。試合は慶應が9対8で勝ったが、早慶両校はもみにもんだ。結局早大野球部長辞任、水原選手謹慎、早大チームはそのシーズンの試合辞退で落着した。

◎昭和9年(1934) 主将:水谷則一
<新入部員> ナシ
前年に続いて1年シーズン制が採られた。なんと4月27日の開幕第1戦は慶早1回戦で、4対2で早大を降したものの、5勝10敗で5位に終わる(法大優勝)。

◎昭和10年(1935)腰本監督が辞任(5月に死去)無監督年度となる。主将:土井寿蔵
<新入部員>楠本保(明石中)、中田武雄(明石中)
春季から六大学連盟が文部省に申請していた通り2シーズン制が復活したが、慶應は1勝9敗で5位の成績(法大優勝)。
この年入部した楠本、中田の二人は中等野球時代から全国的に有名な存在であった。楠本は投手で4番打者、同じく中田は2番で左翼手(控え投手)として、昭和6年春の選抜から甲子園に登場し毎年のように春夏を通じて活躍した。
楠本は昭和8年の選抜準々決勝では京都商の沢村投手と投げ合って、楠本に軍配が上がっている。しかし、何といってもこの両名を有名にしたのは、同年夏の第19回大会準決勝「明石中―中京商」戦で、延長25回に及んだ激闘である。
その試合まで投手は主に楠本であったのが、対中京戦で登板したのは意外や中田であった。結局、延長25回4時間55分を投げ抜いた中田の力投空しく、内野守備の乱れでサヨナラ負けを喫した。
中田は明石中卒業後、1年先輩の楠本を慕って慶應に進学した。入塾後の二人の活躍は年度ごとに記述する。
秋季は5勝3敗2分で4位(早大優勝)。

◎昭和11年(1936) 監督:森田勇(~17年)主将:勝川正義
<新入部員> 松森一郎(神戸三中)
春季は早大渡米中で5校で戦い、2勝5敗で4位(明大優勝)。慶應の誇る投手陣のうちエース楠本が肩を痛め、中田投手が連投となって打ち込まれた。
秋季も中田投手を中心に若手がカバーしたものの2勝5敗3分で秋季は立、明、早大に敗れ、5勝7敗で4位に終わる(立大初優勝)5位(早大優勝) 。
新応援歌「躍る太陽」が生まれている。

◎昭和12年(1937) 主将:岡泰
<新入部員> 山村吉隆(神戸一中) 中井卓三(関学中)
春季は早大に連敗するなど振るわず、5勝4敗1分で3位(明大優勝)。
秋季も殆んど毎試合を中田一人が投げ通したが、前半の不振がたたって4勝6敗で5位(明大連続優勝)。
新入部員の山村吉隆はアマ球界では有名な山村三兄弟の長兄(2番目の博敏は灘中から早大へ、末弟の泰弘は戦後慶應へ)。昭和9年春の選抜と夏の大会で、投手と内野手として出場した。 

◎昭和13年(1938) 主将:(春)灰山元春 (秋)桜井寅二 
<新入部員> ナシ
春季は期待されながら投手陣の不調がたたり、5勝5敗で4位に(明大優勝)。
秋季はチーム一丸で戦ったが、早大に二戦とも惜敗し、6勝3敗1分で2位となった(明大連続優勝)。慶應の花々しい打撃と高木の健投が光った。(つづく)

≪古井戸の崇りについて≫

森本 周子(昭25文)

ノーベル賞に価する研究をしたと自負する科学者ですら、配偶者の死に直面すると、近所の人々の「お庭にある古井戸のたたり」という言葉に動かされ私の方迄、電話で打ち明けて来た。今年のトピックスとして考察してみよう。

洋の東西を問わず何故、迷信的なものが存在するのか? 地球上である災難、病気を含む人間の不幸が生じると、ごく小さな家庭、村落の出来事とはいえ、その原因や責任者を追及する傾向があった。人間が遂に迷路に、行き当った末、解決が不可能になると、特定の人間を割り出すと、色々悪影響も生じる。それ故、古井戸が悪いと井戸のせいにしたら現在の人間の悩みも軽減し、一応の解決をみるという先人の無意識の知性の働きの結集ではないかと私は考えるに至った。

恐らく、狭い日本の国土に於いて、伝説の調査は行われていると思うが、80歳になっては、その研究をしたくとも、エネルギーがない。

あれこれ思索していると、途端に下からつきあげる地震が起こった。文化の発達した現代人にとって、電気ガスの応急の処置をとらねばならぬ時と考え、ラジオのスイッチをつけた所、奈良が震源地マグニチュード4と報じ、大阪は震度3、西宮は震度2の由、この辺でペンをおく。   2007年11月6日(火)

≪12月≫

木村 健(昭57法)

12月生まれの私にとって、少年時代における当月の到来は、一年間で最も楽しみな時期であった。「お誕生日」「クリスマス」そしてその1週間後には「正月」と、いわゆる「プレゼント」をもらえる日が、この時期に集中していたからだ。昨今のように子供たちが、祖父母や両親からすぐにモノを買ってもらえる時代ではなかった。秋が終わり、寒くなっても、12月の到来は夏休み到来より嬉しかった。

学生時代を経て、社会人となった20歳代は「誕生日」や「クリスマス」が別の意味でワクワクする年頃であったが、時は1980年代のバブル景気前夜。

当時、流通業界と一蓮托生のアパレル業界に在籍していた私は、12月は年末商戦で休日も無く馬車馬の如く百貨店の店頭での販売応援に明け暮れ、自身の「誕生日」や「クリスマス」は、置き去りにされようが、売上数字は日々、頭の中へ刻まれていった。ともかく一年間で最も売上構成比が高く、モノが売れる12月であり、少年時代の年間で「最も嬉しい12月」は、「最も多忙な12月」に変わった。

1980年以降、世界経済・日本経済の大きな変遷と、それに伴う流通小売業界の大きな変化は、生活者のライフスタイル・消費行動の大変化をもたらした。消費者の買い物時に於けるクレジットカード払いの恒常化は、12月ボーナス商戦なるイベントを減速化した。また百貨店・量販店は正月元旦や2日から営業開始となり、同時に年中無休のコンビニエンスストアの全国規模展開は、年越しの為の「買いだめ」という消費行動を失わせた。また、正月の福袋大振舞いや、クリアランスセールの早期開始により、買い物の楽しみも年末から正月へ移行した。

一方で、「クリスマス」「年末年始旅行」に於ける、お値打ちものから豪華なものの企画提案は、不況時代においても活発であり、生活者の消費はモノに対する消費から行動に対する消費に関心が移るとともに、確実に進行している。

さて、12月は、90年代以降、私が仕事を通じて深くかかわってきた流通小売環境を中心に、一年のうちで、最も変化の大きかった月という印象である。それに伴い、「最も多忙な12月」は薄れた感もあったが、「忘年会」や「得意先・取引先への挨拶」といったケジメを大事にする日本人の行事は健在であり、従って、「やっぱり多忙な12月」ではあるが、こういう慣習は、続けていくべきものであると。

10年後に感ずる12月は如何に。どなた様か、お教え下さいませ。

≪12月≫

木村 健(昭57法)

行って参りました。チビタノバ
チビタノバって? んー、ミラノから国内線でアンコナまで飛び,そこから車で約30分の田舎町、ブーツでいうと、丁度ふくらはぎ付近でしょうか?

イタリアはご存じのとおり革製品で有名ですが、チビタノバの近くにも、有名ブランドの工場があり(大小合わせて150工場ほど)直接工場へ行くと靴や洋服が安く購入できます。私もスーツ3着(これは無名ブランド)とシューズ1足を購入して参りました。しか~し、イタリア旅行の目的は観光でもショッピングでもなく、我が愛する妹の結婚式に参列することにありました。相手の男性は、ミケランジェロ。妹と同じ職場で、世界中を飛び回っていますが、チビタノバ郊外の600坪ほどの敷地に、お父さん、お母さんが住んでいます。今回は、イタリアに一時帰国しての結婚式です。

妹は、何度かイタリアの家で過ごしたこともあり、すっかり家族の一員として愛されている姿を見(我が家にいる姿となんら変わりない)、妹を送り出す兄として安心したことを今でも思い出します(母は、もっと感慨深いものがあったと思います)。

日本のような大勢を招待しての結婚式、披露宴ではありませんでしたが、家族が一丸となって2人の門出をお祝いしてあげたいという気持ちが本当に伝わってくる素敵な式でした(もっとも、「お兄ちゃんは座ってくれてるだけでいい」そう言われての出発だったはずが、式当日に役割を仰せつかったことには少々焦りましたが)。

イタリアのママとバボ(パパ)、サラ(義姉)とアントニオ(旦那さん)には本当に感謝です。 
今、妹夫婦はターコスというところにいます。来年には、休暇の間、2週間ほど日本に立ち寄る予定です。 
そのころには、赤ちゃんができたと報告を受けるんでしょうか。楽しみです。

≪ちょっと一言≫

高嶋 哲夫(昭48工)

◎『ミッドナイトイーグル』が封切りになりました。
よろしくお願いします。本のほうも。

◎『ペトロバグ』(文春文庫)発売中。
石油高騰のおり、ぜひお読みください。 ただちに安くなるとは言いませんが。

2007年11月号掲載

≪塾野球史(昭和前半)をひもとく≫ ~兵庫県出身の選手を中心に~ 【第二回】

市居 嘉雄(昭29経)

◎昭和3年(1928) 主将:岡田貴一(~5年)
<新入部員> 川瀬進(甲陽中)
春季は塾が渡米中で欠場。秋季は五大学すべてをストレート で降し、十戦全勝で輝く優勝を遂げた。猛打での優勝といってよく、中 でも山下実(第一神港商出)は0.333本塁打3本を放つ活躍であった。慶明戦は超満員、皇族方の観戦もあった。
この年入部の川瀬は大正15年春の選抜に遊撃手として甲子園に出場している。なお、この年には「丘の上」や応援歌「三田に輝く三色旗…」が生まれた。

◎昭和4年(1929)
<新入部員> ナシ
春季から入場式とダブルヘッダーが行われることになり、内外野とも満員となった。
明大が渡米中で、慶早の優勝争いとなり、大接戦の末、慶應が決勝戦で早大を破り優勝した。チーム打率は0.342の高率で、特に水原、井原は4割台をマークした。
秋季も慶早の優勝争いとなり、9勝2敗で2位に終わった。山下実は0.438で首位打者となった。この頃は、慶早戦がリーグ戦最終ではなく、後に慶明戦や慶法戦が行われていた。
シーズン後の11月1日、天覧慶早戦が行われ、12対0(8回コールド)で慶應が勝っている。

◎昭和5年(1930)
<新入部員>ナシ
春季も慶應の全盛時代が続き、明治の食い下がりを退けて10勝2敗1分で優勝。宮武選手が4割で首位打者を獲得した。
この頃の慶早戦入場券は、それまでの前日発売ではファンが数万人も徹夜して危険なため、申し込みを1週間前までに往復ハガキで行い、クジ引き抽選で決める方式が採用されたという。
秋季は8勝3敗で2位(法大優勝)。

◎昭和6年(1931)主将:梶上初一
<新入部員> 後藤正(第一神港商業)
春季は法大渡米中で、慶明戦に明大八十川投手のボーク騒動から明大が出場遠慮を表明。慶早戦は早大伊達投手の3連投に惜敗したが、慶應は7勝2敗で優勝。川瀬(甲陽中出)は八十川ボークの時の3塁走者であり、慶早第3戦では走者2・3塁に置いて最後の打者で1点差の敗退。
秋季は立、明、早大に敗れ、5勝7敗で4位に終わる(立大初優勝)。
なお、新入の後藤は神港商の1塁手として昭和4年の選抜に4試合で0.580を記録し初優勝に貢献。翌年の選抜でも活躍し連覇を果たしている。

◎昭和7年(1932)主将:牧野直隆(~8年)
<新入部員> 岸本正治(第一神港商業)、九里正(甲陽中)
春季は立大渡米中。早大は「純真な学生スポーツを守る立場から興行化した連盟を脱退する」と声明し、リーグ戦途中から離脱した。文部省は野球統制令を発令。慶應は6勝2敗で優勝した。塾の勝川選手が0.370で首位打者に。
秋季は慶早法の実力が伯仲していたが、リーグ復帰の早大に連敗し、8勝3敗1分で2位(法大2度目優勝)。このシーズンから慶早戦がシーズン最終に行われることとなった。(つづく) 

≪南米4カ国の旅≫(その2)

浅沼 清之(昭36経)

かつて南米最大の帝国を築いたインカや、紀元前から栄えてきた古代文明の数々も、ペルー観光の大きな魅力である。謎の空中都市といわれるマチュピチュや、乾燥した大地に刻まれたナスカの地上絵等、未だに多くを解明されていない遺産が、ペルーには幾つも残されている。神秘的な遺跡を眺めて、遠い過去を身近に感じることができるのも、旅行の楽しみの一つであろう。乾燥地帯に栄えたナスカ文化は、広大な大平原に残された、巨大な地上絵で知られているが、空中からセスナ機に乗って眺めると、直線、三角形の図形や、動物、魚、虫、植物、などの巨大な絵が刻まれている。何の為に描かれたのか解明されていないが、年間を通じてほとんど雨の降らない気候が、多くの謎を秘めたまま、砂の荒野に描かれた地上絵を残したらしい。

インカの都クスコは、昔、インカ帝国の首都であった。16世紀にスペインの征服者達によって、インカは山奥へ追われ、代わってスペイン人が、インカの礎石の上に、教会や邸宅を造った。そのため、クスコの街は、インカ時代の名残と、スペインの征服の歴史が混じりあう古都となっている。標高3400mのクスコに着くと、多少空気が薄く感じられた。マチュピチュはクスコから、ウルバンバ川に沿って100kmほど進んだ奥深いジャングルの中の、標高2400m付近に位置し、断崖と尖った山々に囲まれているため、麓からその姿を確認することはできない。空中からしか見えない為に、空中都市と呼ばれている。

15世紀にスペインによって、インカが征服されると、スペイン軍はインカの都市を、ことごとく破壊し尽したが、マチュピチュは、スペイン軍に見つかることなく、奇跡的に、ほぼ完全な状態で残されたという。失われたインカの都市造りを、今に伝える遺跡として、周辺に広がるジャングルと併せて、ユネスコの世界複合遺産に登録されている。アンデスの民俗音楽フォルクローレを聴きながらの夕食も、情緒があり、印象深い。

今回の旅の、最後の観光に行ったリマは、人口700万人を擁するペルーの首都で、南米のゲートウェイとなっている。海岸砂漠地帯に位置し、年間を通じてほとんど雨は降らない。旧市街セントロのアルマス広場周辺は、ペルー政庁やカテドラル、市役所等が並ぶ官庁街があり、政庁では、衛兵の交代式が厳粛なセレモニーとして行われていた。

セントロから30分ほど離れた、新市街ミラフローレンス地区は、太平洋に面した、お洒落な、若者に人気のある地区で、オープンテラスのカフェや、シヨッピングゾーン、ビーチ、公園などが連なっている。ミラフローレンスに隣接するサン・イシドロ地区は、高級ホテル、カジノ、ブティックが点在する地区で、観光客で、華やかな賑わいを見せていた。セントロの北側にある、サン・クリストバルの丘は、スペインの要塞であったが、ここから、リマ市内の広がりを一望できる観光名所となっている。かって旧市街がリマの中心であったが、近年は、治安の悪さなどから、オフィスの集まる中心地は、新市街に移っているようであった。

リマ滞在を最後に、空路帰国の途につき、再びロス経由で、無事2週間の旅を終えた。飛行時間が長いだけに、今年古希を迎える私には、いささかハードな旅行であったが、もうしばらく、好奇心を持って、旅行に出かけたいと念願している。 (終わり)

2007年10月号掲載

≪塾野球史(昭和前半)をひもとく≫ ~兵庫県出身の選手を中心に~ 【第一回】

市居 嘉雄(昭29経)

わが慶應義塾に野球部が出来たのは明治25年(1892)、体育会が創設された時に始まるとされている(1888年創部との説あり)。以来、今日までその歴史は百十余年を有し、これからも塾野球部の活躍を大いに期待しているところである。

平成に入って発刊された『慶應義塾野球部史』(上下2巻)には、その活躍の歴史が詳しく記述されているが、後年になり私はそれを入手してから、兵庫県下から塾の野球選手としての活躍ぶりを振り返ってみたいという構想を抱いていた。

私は昭和29年春に卒業するまでの4年間、塾の試合をはじめ六大学野球の観戦に神宮球場などへ出かけたし、甲子園の春や夏の大会にもよく通っていた。そこで、今回昭和前半における塾野球選手について取り上げることにした。

さて、昭和前半に活躍した地元選手について触れるまでに、どうしても大正末期の一人の選手を挙げておかねばならないと思う。その人の名は浜崎眞二。大正12年に塾に入った浜崎は、小柄ながら本来のミラクル投法で投手として活躍、場合によっては外野手や捕手も器用にこなし、バッティングは高アベレージを記録している。

そもそも浜崎は、大正6年(1917)の第3回中等野球の夏の大会(鳴尾球場)では、広島商業の右翼手として出場しているが、5年後の第8回大会には今度は神戸商業の投手兼右翼手で3番打者として活躍した。

浜崎は塾卒業後、満州クラブでも投打の主軸として活躍、41歳で同クのエースをつとめ、小気味のよい投法で打者をほんろう、優勝に導いたのは有名な話である。戦後プロ野球に入り、阪急・高橋・国鉄の監督をつとめ、後にはネット裏の“ご意見番”といわれた。昭和53年(1978)1月に野球殿堂入りを果たしている。

以後は昭和の各年度ごとに野球部活躍の選手達の足跡をたどっていくこととする。

◎昭和2年(1927)監督:腰本寿(大正15年~昭和9年、主将:原田安次郎
<兵庫県出身新入部員>(以後兵庫県出身は略す)
島本篤二郎(滝川中)、山下実(第一神港商業)、堀川栄三(関学中)

春季は早大は渡米中で、塾は8勝3敗で五大学の2位(明大優勝)。秋季も9勝3敗1分で2位(明大優勝)。首位打者は慶應の浜井武雄で0.409。このシーズンに「若き血」が生まれた。塾生の増永丈夫(のち藤山一郎)が学校内で歌唱指導し、初めて秋の早慶戦で応援歌として斉唱されたという。

この年入部した山下実は第一神港商時代、春2回、夏3回の大会を通じて一塁手として出場し、完成したばかりの甲子園球場で大ホームラン2本を放って“怪物”の異名をとった。投手として登板したこともある。塾に入ってからの活躍はその年度で記す。卒業後は大連満州クラブを経て、プロ野球阪急の結成に加わり、一塁手、監督としてプロ野球の人気高揚に尽くした。昭和62年(1987)1月に野球殿堂入りした。

 

塾野球部の冬期練習は甲子園球場で行われた。 (つづく)

≪南米4カ国の旅≫(その1)

浅沼 清之(昭36経)

昨年11月に、2週間程かけて、南米4カ国を巡る旅に、家内と出かけた。ロスアンゼルス経由でペルーのリマに飛び、飛行機を乗り継いで、アルゼンチンのブエノスアイレスに到着、ここで初めてホテルに宿泊するという、長時間飛行の旅立ちであった。

ブエノスアイレスから、イグァス、ブラジルのリオデジャネイロ、チリーのサンチャゴ、ペルーのリマに移動し、再びロス経由で帰国の途につく、というスケジュールである。最初の訪問地ブエノスアイレスは、ラ・プラタ川の河口に広がる、人口278万の港町であるが、ヨーロッパからの移民が築いた街だけに、南米のパリと呼ばれる雰囲気が残っている。5月広場を起点に、西に広がるモンセラート地区には、大統領府や国会議事堂、大聖堂といった歴史的、政治的建造物が点在している。一方、アルゼンチン最初の随一の港であったボカと呼ばれる地区には、カラフルに彩られたカミニート(小路)に、観光客が押し寄せている。労働者や船乗りのたむろする薄暗いバーの片隅からアルゼンチンタンゴが生まれたというが、パフォーマーが路上でタンゴを踊り、アーティスト達が露天ギャラリーを開く街でもある。夜は、本家本元のアルゼンチンタンゴの演奏を聴き、挑発的なタンゴダンスショーを楽しんだ。アルゼンチンの食事事情は、肉がメインである。広大なパンパ、牛を追うガウチョ、そして食糧自給率90%のこの国の名物は、アサードという焼肉料理であるが、牛の丸焼きの各部位が次々と運ばれてくると、私のような年配者には、いささか食傷気味であった。

ブエノスアイレスから、世界最大規模のイグァスの滝まで、毎日フライトがある。滝の在るイグァス川は、アルゼンチン、ブラジル、パラグァイにまたがっており、アルゼンチン側にある最大の滝が、「悪魔の喉笛」と呼ばれて、イグァスの滝の最大のハイライトといえる。ブラジル側に凄まじい勢いで流れ落ち、水しぶきをあたり一面に上げる。ブラジル側では、下から、イグァスの滝の全景が眺められ、両方とも迫力充分であった。いずれも世界遺産に登録されている。ヘリコプターで国境の上空を飛ぶと、国立公園の、森林と滝のスケールの大きさがよく理解できたし、滝の水しぶきにかかる虹の橋を撮影できたのも幸運であった。

好天に恵まれたイグァスからリオネジヤネイロに飛ぶ。ブラジル南東部にあるリオの港は、肥沃な土地で生産される農産物や、貴金属の輸出港として、17世紀末から重要性を増し、サルバドールから総督府が遷都された。ブラジルは1,822年にポルトガルから独立したが、1960年のブラジリア遷都まで、首都はリオに置かれていた。現在人口は700万人を超え、サンパウロに次ぐ国際観光都市である。華やかなカーニバル、ゴージャスなビーチリゾート、ヨーロッパ芸術の上陸、ボサノバ音楽の発祥の地等、常に歴史の檜舞台になってきた。

コルコバードの丘に立つ高さ30メートルのキリスト像が、リオ観光のシンボルとなっている。絶壁の頂に立つと、リオ全体を箱庭のように見渡すことができた。複雑な海岸線が入り込むリオは、世界3大美港の一つとして知られているが、眼下に広がる海岸線が、白い弧を描き、コパカバーナのホテル群と湖の姿が美しい。

ブラジルはサッカー観戦が、市民最大の娯楽といわれるだけに、ワールドカップのために造られた、マラカナン・スタジアムは11万人以上収容できる立派な施設であった。サッカー少年にとっては、栄光ある夢のスタジアムに違いない。夜は、情熱のサンバショーが目を楽しませてくれる。華やかで、露出度の高い衣装を身につけて踊る美女群から目が離せないが、各国からの観光客を舞台へ巻き込んでの盛り上がりようであった。

ブラジルから空路、アンデス山脈を越えて、チリーのサンチャゴに向かう。細長いチリーの、ほぼ真ん中に位置するサンチャゴは、16世紀に、黄金を求めてやってきたスペイン人によって築かれたが、今は人口550万人が暮らす地中海性気候の大都市である。年間300日以上が晴天に恵まれるという。街の背後にはアンデスの山々が連なり、アメリカ大陸最高峰のアコンカグア(標高6960メートル)が、東に聳えている。旧市街にあるアルマス広場の大聖堂や、モネダ宮殿は、チリーの歴史に欠かせない建造物である。近郊のチリーワインのワイナリーを訪れ、試飲させてもらったワインが美味かった。

サンチャゴから、最後の訪問国ペルーのリマに飛ぶ。アンデスの山々で生まれたフォルクローレの音楽や、鮮やかな民族衣装を纏った先住民、神秘的な古代遺跡等ペルーは見どころが多い。 (続く)

≪クイーンズタウンの思い出≫

石崎 雄三(平9経)

私は、学生時代スキーをしていました。そのため、前期にアルバイトで貯めた給料を使い、夏休み2年間通算約3ヶ月スキーの練習のためにニュージーランドのクイーンズタウンに滞在していました。もう今から13年前くらいの話ですが、この執筆の依頼が来て何を書こうか悩んでいるとき、ふと思い出したので綴ってみることにしました。

まず、クイーンズタウンですが、ニュージーランドの南島の南のほうに位置し、サザンアルプスに囲まれワカティプ湖に面した小さな町です。1860年代ゴールドラッシュのさなか多くの金鉱夫たちが訪れ、この町の美しさに「女王が住むにふさわしい町」ということで名づけられたそうです。

この町をベースとして主に2つのスキー場に行っていました。ニュ―ジーランドのスキー場は山の頂上付近にあるため、毎日下の町より通わねばなりません。(山の頂上付近にあり岩ばかりで木が無いので見晴らしは最高です)まず一つ目はコロネットピークです。ここは、クイーンズタウンからバスで40分位のところで、急・中・緩斜面がバランスよくありました。ですから本当に練習したいときにはこちらが多かったです。二つ目はリマーカブルズです。こちらは、バスで50分くらいのところで、約1.5kmのオフピステがあり新雪をワカティプ湖に向かって滑っていくのは最高です。また、天気が午後から下り坂の日は早めに山を下りゴルフをしたり、ワカティプ湖に面した公園をジョギングしたりと、今からは想像のつかないほどの健康的な生活をしていました。

スキー以外ではお金が無いので、ほぼ自炊の生活でしたが、たまに行く「The Cow」というピザハウスに行くのが楽しみでした。ここは、BYO(Bring Your Own:飲み物の持ち込み可)ということで向かいにある酒屋でペットボトルに生ビールを入れて買い、それを持ち込んでいました。また、パブに行くのも最高の楽しみでした。ビールの銘柄は「スペイツ」がお気に入りでした。また、ラグビーの試合がある日はパブでビールを飲みながら大型テレビで観戦していたのも良い思い出です。

学生の身分ですのでお金のかかるヘリスキーやラフティングなどは出来ませんでしたが、(バンジージャンプだけは記念に73mのものを体験しておきました)非常に良い思い出です。美しい景色に囲まれ、南十字星も見られる町ですのでスキーやスノーボードをなされない方でも一度訪ねられてはいかがですか。ゆっくりするのにも良いです。

ちょっと一言

本年4月号で紹介した高嶋哲夫会員(昭48工)の小説「ミッドナイトイーグル」の映画が完成、11月23日より全国ロードショー公開されます。

2007年8月号掲載

≪カラダ、動かしてますか?≫

徳丸 由里(昭55文)

最近、アメリカの軍隊式エクササイズ「ビリーズブートキャンプ」が話題を集めています。先日インストラクターのビリー隊長が来日し、マスコミを賑わせていたのは、記憶に新しいところです。けれども今どきのフィットネス界では、あのような激しいエクササイズは、もはやトレンドではありません。ビリーのようなムキムキの筋肉ではなく、「コア」とか「インナーマッスル」と言われる、内側の筋肉・中心の筋肉を鍛えることを目標とするようになってきているのです。

私のフィットネス歴は10年以上になります。当初はエアロビクスやジャズダンスが全盛の頃で、それこそビリーズブートキャンプのようにクタクタになるまで大汗をかき、午後は使いものにならずお昼寝、といった状態でした。けれども、汗をかいた後の爽快感は何とも心地良く、以来すっかりハマってしまいました。

1年も続けるうちに、いつの間にか慢性の胃痛や腰痛に悩まされることもなくなり、運動の大切さを思い知るようになります。さきほども書きましたように、ここ2~3年はエアロビのような激しいエクササイズは次第に影をひそめ、ゆっくりとした穏やかな動きを繰り返すことによって、じんわり汗をかいて内側の筋肉を鍛える「ピラティス」や「ルーシーダットン」などが主流となってきています。

楽にできる反面、少々物足りず、1年ほど前からは新たに「トランポビクス」と「バランスボール」の教室にも通い始めました。トランポビクスとは、1人用の円形のトランポリンを使ってのエアロビです。まずウォーキング、そしてジャンピング、ランニングと練習し、音楽にあわせた振りがつきます。

兵庫県では、神戸女学院を本部とした組織ができており、先日の国体の開会式や神戸まつりに参加したグループもあります。私も先日テレビ出演を果たしました。(ほんの数秒ですが・・・。)

この競技は「死ぬまで自分の足で歩く」ということを目標としており、園児から70代までの幅広い競技人口を有します。私の教室でも20代から50代までの女性が練習していますが、意外にも若い子より中年のオバさん達の方が、気力・体力ともに充実しているようです。(乗り越えてきた修羅場の数の差でしょうか・・・。)

バランスボールの方は、テレビなどでもお馴染みの、座ったり弾んだりする大きなボールと、バレーボールほどの小さなボールを組み合わせて使っていくエクササイズで、身体の歪みをなくしバランスを整えることを目的としています。この競技はまだまだ初心者で、今後さらに練習していかなければなりません。

これから年を重ねていっても、ことフィットネスに関しては、守りに入らず、攻めて攻めて(?)いきたいと思う今日この頃です。

≪第16回東西4大学OB合唱連盟演奏会≫

広瀬 努

1977年に東京で開催されてから30年を迎え、関西学院、同志社、早稲田、慶應の4大学の男声合唱団OBが全国各地から350余名が集まる演奏会が、7月29日神戸国際会館のホールで開催されました。会場が満員になる盛況ぶりに驚きました。

4大学の校歌にはじまりそれぞれ各大学の個性あふれる演奏があり、慶應義塾ワグネル・ソサイエテイーOBも100名を越し、同志社に次ぐ人数で「富士山」を熱唱し、練習された成果を十分発揮され、最後に4大学合同演奏も本当に迫力があり盛大ですばらしい会でした。

演奏後ホテルでレセプションが開催され、昨年神戸を訪れた現役も数名参加していて楽しい交流の会でした。ワグネル関西三田会の森田会長、西山さん本当にご苦労さまでした。

2007年7月号掲載

≪バリ島旅行≫その3

池田 雅彦(昭39工)

今回は私にとっては4度目のバリ旅行です。最初は日本からのパック旅行ばかりでしたが、行くところは決まって寺院や遺跡、そして点在する芸術村でみやげ物を見て回るだけでした。

そんな旅行をしているうちに『一度で良いから世界の観光地バリだけでしか味わえないところでゆっくりと過ごして見たい』と思うようになりました。バリ独特の落ち着いた雰囲気と美しい景色、そして安全で、日本人にやさしい人々に触れて虜になってしまったのです。

そんなバリ島がどうして生まれたのか?という素朴な疑問から、バリに関する色んな本も読んでみました。それはオランダ植民地時代にさかのぼる話です。

今から100年以上前に活躍したオリエンタリストの一人、英国人ラッフルがバリ島への熱い思い入れを書いた本がベストセラーになりました。更にオランダ人建築家や芸術家たちの積極的な働きもあって、欧米各国でバリ・ヒンドゥー文化をイスラム教から守ろうという一大風潮が巻き起こったのだそうです。そしてスエズ運河開通に始まった船による世界旅行ブームがバリ島を世界的な観光地に育てあげたという劇的な歴史でした。

今回の旅行は、観光は先月号の古武さんのレポートにもありました『ブサキ寺院』をメインに絞って、あとはウブドで『ヴィラとスパが楽しめるリゾートホテル』で夫婦水いらずで、ゆっくりと過ごしてみよういうことになりました。

バリが初めての人には少々退屈かな?と心配していましたが、皆さんそれなりの楽しみ方をされ、夜になると全員で食事をしながら、その武勇伝?を披露して、まるで学生時代のゼミ旅行に戻ったような楽しい旅行になりました。

ところで『スパ』に入るか入らないかの奥様方の会話をここでご紹介しましょう。『そう言えば日本のタレントの××が年に1・2度行くんだって!』、『へーッ、花びらの浮いた風呂なんかに入って、何が楽しいのョ?』、すると某氏の奥様すかさず『もし白い花びらだったらどうなるの・・・!?』。これには流石の私も「白い花びらに首だけ出している自分の姿」を思い浮かべてゾーッとしました。でもこれも経験だと私も家内に付き合うことにしました。3時間のフルコースは足マッサージから始まります。

次に垢こすり、全身のオイル・マサージ、そしてベランダを大きくしたような壁のない部屋で、谷から聞こえる川のセセラギを聞きながら金色の大きな丸い風呂にゆっくりと入ります。これで終わりかと思っていたら、あと1時間、顔のパックが始まりました。男の私には始めての経験でしたが、あごの髭を逆剃りするようにスポンジで何度もこすられたときは、痛くて痛くて、苦痛の何物でもありませんでした。

しかし、終わって家内と顔を見合わせて、お互いに『あれーッ、シワが綺麗に無くなっているね!』。やはり、たまには世の中の事をすべて忘れてボーッとするのもいいものだと、今でも話しております。風呂がツルツル滑べって、好みもしないのに自分の体が家内の体にくっついてゆくのには些か閉口しましたが、これも良い思い出です。

私はこれまで以上にバリにはまってしまい、先月も5度目のバリ島に行き、1000mの高原リゾート地のブラタン湖の近くにある「世界人気ベスト50に入るというハンダラ廣済堂ゴルフ場」と、「大統領が国賓をお忍びで連れて行くというニルワナゴルフ場」でプレーして来ました。スコアーはもう一つでしたので、将来また挑戦してみたいと思っております、希望者はございませんか? 
 (バリ島旅行記のシリーズは今回で終りです。)

≪ヒンドゥーの結婚式に出席しました≫(2)

藤井 文明(昭39工)

(6月号に引き続き後半を掲載します。)

2日目は結婚式です。
今度は大きな会館で、司祭と助手がフランス語、英語、クレオール語で祝福をし、同様に火を焚いて祈ります。今度は花嫁もいて花婿と一緒に祭壇の回りを1時間半もぐるぐる回ります。花嫁が2日目に出てきた代わりに、今度は母親が見当たりません。これもしきたりだそうです。花嫁は従兄弟の家で顔と手足の化粧をされて婚礼衣装に着替えます。手足の化粧とは写真をご覧ください。

この日は主催者曰く親戚250人、友人150人とのことでしたが親戚とはどこまでの範囲なのか見当がつきません。やはり食事は野菜が主の薄い汁状のカレーライスでした。

3日目は披露宴です。
前日と同じ会場に着くと、歌手や踊り手が強烈な音量の音楽で歌い踊っています。新郎新婦中心の行事が終わるとご詠歌も終わり、突然音楽が鳴り出して、今度はダンスが始まりました。真っ赤なサリーに緑の宝石の額飾りを付けた新郎の妹も流麗に踊っています。ダンスが終わると、この日もカレーライスです。この日も400名の出席者でした。

4日目は花嫁側が親族を呼んでお返しの振る舞いです。
近くの中華料理店でやっとカレーライス以外の食事とワインにありつきました。食事の終わり近くになって、英語の苦手な花嫁の両親に代わって突然お礼の挨拶を英語でやって欲しいと言われ、演説なら任せて頂きましょうとお礼の挨拶をやってしまいました。

この国では英語は3番目の言葉ですから、かなりいい加減なしゃべり方でも気にすることはありません。双方いい加減同士で何となく通じ合えました。

この国の人達は日本人のテンポからはかなり違和感がありますが、我々が忘れていた「ゆっくり、ゆったり、あせらずに」の方が人生は楽しいことを教えてくれたような気がします。新しくできた親戚250人に会うだけの目的で、次にまた骨休めに行きたい筆頭の国でしょう。今年の日本人の入国者を5月時点で我々一行だけで8人に増やしてしまいましたが、もっともっと増えて当然の国と思いました。

2007年6月号掲載

≪バリ島旅行≫その2

古武 由紀子(昭40文)

バリ島の人口は265万人、常夏の国で10月から3月は雨季、4月から9月は乾季で、7,8,9月は一番過ごしやすい時期だそうです。言語はインドネシア語が共通語で、バリ島ではバリ語が話され、年配者はインドネシア語を話せない人が多いとのことです。

バイクはバリ島の足といわれ日本製の100ccのものが多く、一台に2~3人乗っているのが普通で、ヘルメットもかぶらず多いときには幼子を入れ4人も乗っているのには驚きました。

<ブサキ寺院>

ブサキ寺院はバリ島の三大寺院の一つで「母なる寺院」としてバリ・ヒンドゥー教の総本山として崇められています。お祭りに参加する人達は大人も子供も正装し、男性は神経を集中させるという意味のベスタールという帽子をかぶり、カインという腰巻のようなものを身に着けています。また女性はお供えを入れた籠や箱を頭に上手に載せ、シャキッと背筋を伸ばして歩いているのが印象的でした。

<ケチャックダンス>

このダンスはバリ島の古典舞踊で円陣を組んだ大勢の上半身裸の男性の「チャッ!チャッ!」という力強い掛け声の中でストーリーが繰り広げられるものです。実際は暗くてよく見えない上にストーリーはよくわからなかったのが残念でしたが、長時間歌い続ける声力と体力には感心しました。

 

<ウブドの街の散策>

散策中に道端の店で水を買おうと英語で話かけたところ、相手は上手な日本語で対応してくれました。色々と話をしているうちに店の主人はAgung Rei Kesumarataさんといい、民族舞踊のTirtasari楽団の団員で、公演のために東京、横浜、神戸に行ったことがあるとのことでした。今度の日本公演での再会を約して別れました。

街を歩いていると野犬や放し飼いの犬が沢山ウロウロしていて、また鶏も放し飼いされ、車の往来する道を雌鶏がひよこを何羽も連れて歩いているのには驚きました。私達には見慣れない光景ですが、地元の人達はあまり気にしていない様子でした。

<お金>1万円を両替すると71万ルピアになり、お金持ちになった気分です。反面1500ルピアの水を買った時2000ルピアを払ってもお釣りをくれません。小銭が無いらしいのです。500ルピアの価値は7円程度なのですが、気分的には沢山損したような気になってしまいます。

<おわりに>この旅行のお世話をしてくださった池田さん、前田さん、ご一緒した皆さんにお礼を申し上げます。

Terimakasia Banyak(ありがとうございました)
そしてSampaijumpalagi(さようなら)バリ島

≪センチメンタル・ジャーニー(中米の旅)≫

近藤 正(昭39商)

昭和39年大学を卒業する直前、潮田江次団長(福澤諭吉先生の孫、元塾長)以下約150名の団員(ほとんど塾4年生)による「慶應義塾大学中米親善訪問団」に参加して、1ケ月かけてエルサルバドル、グアテマラ、メキシコの3カ国を歴訪した。木村太郎(ニュースキャスター)や川口浩(俳優 故人)も一緒だった。

当時はまだ海外旅行は珍しい時代で、治安も対日感情も良好で、行く先々で歓迎を受けた。或る大学との交歓パーテイーで知り合った女子学生の自宅に招待され、家族総出で歓待された。美しい混血の彼女と再会を誓って別れ、帰国してからも数回文通をしていたが、いつの間にか途絶えてしまった。

そんな思い出があり、数年前から当時常に行動を共にしていた親友のm君と再度訪問しようと計画していたが、この度ようやく実現の運びとなり、3月中旬から2週間m君と中米各国を旅行した。

グアテマラを振り出しに、ホンジュラス、ベリーズ、メキシコのマヤ文明の遺跡を探訪した。マヤ民族は、3世紀頃から次々と都市国家を建設し、巨大なピラミッド神殿などを築いたが、9世紀に忽然と歴史上から姿を消した。その謎は魅惑的だが、更に知的レベルの高さにも驚かされた。特に天体観測に優れ、精密な暦を持っていて、当時すでに1年を365.24・・・日と現代とほとんど変わらない数値を定めていた。

それを象徴的に見たのが、今回の旅行のハイライトであるチチェン・イツアー(ユカタン半島北部)での「春分の日の奇跡」だった。
巨大なピラミッドに太陽の傾きによって変化する影が、あたかも大蛇(ククルカーン)がはっているように見えるのだ。この幻想的な光景は、1000年以上時が過ぎた今もなお、正確に機能し続けているというから驚きだった。この日のために全世界から観光客が押しかけ、ピラミッドを見守る中で、大蛇が動き出した時には大歓声が上がった。

今回の旅で往年の女子大生との再会も期待したが、当然ながら手がかりも掴める筈もなく、はかない夢と終わった。しかし、43年ぶりに再会して、老醜をさらすよりも、ほろ苦い思い出として胸にしまっておいた方がよいのであろう。

≪ヒンドゥーの結婚式に出席しました≫(1)

藤井 文明(昭39工)

モーリシャスという国をご存知でしょうか? アフリカ大陸の東、インド洋上に浮かぶ小さな国です。地球儀でも世界地図でもポツンと点のように見える香川県程の広さの国です。途中、経由地の中東の国ドバイで乗り継ぎ35時間の長旅でした。

なぜこんな国まで行ったかは、家内の姪がそこで結婚したからです。この姪は中学のころから豪、英に住んで結局外国人と一緒になることになり、相手の生地がモーリシャスだったという訳です。インド系でロンドンで生活している青年です。

この土地でしゃべる言葉は我々が全く分からないクレオール語ですが、小学校からフランス語、英語を教育されて小学生でも英、仏語を自由にしゃべり、また街の中の案内や表示はフランス語90%、英語10%くらいの割合でしたから共通語はフランス語なのでしょう。日本を思い起こすものは自動車以外全くありません。日本人など見たこともないので、どこでも中国人かと言われました。2006年の日本人入国者数がわずか3人と報告されています。しかし自動車については日本製のトヨタ、日産、ホンダなどの乗用車やいすず、日野などのトラック、バスが大量に、それもかなりの割合で中古車が輸入されて走っています。車検制度や定期点検制度がないのか、かなりの割合の車が黒い煙を盛大に吐きつつ、ブレーキランプもヘッドライトも片方切れたままで気にせず走っています。花嫁とその両親を披露宴会場へ運ぶベンツもきれいに磨き上げてありましたが黒煙を吐き、方向指示灯は切れてしまっていて何とも様になりません。日本では見られない光景です。

到着1日目。空港からホテルへ行く道の両側は見渡す限り砂糖きびの畑で、どこまでも続きます。遠くに奇抜な形をした岩山が見えます。垂直を超えた断崖の山もあり、登山家なら意欲が湧きそうな形をしています。

4日間同国に滞在しましたが、すべて結婚式関係の行事に費やされ、かつてマーク・トエインが「神がモーリシャスを造り、それを真似て天国を造った。」と書いたすばらしい国の観光そっちのけで、前夜祭、婚礼式典、披露宴、お返しの宴会が毎日続きました。

まず初日の前夜祭は花婿の実家の自宅と自宅横の空き地にテントを張って屋根を作り、椅子を置いて来客を招き入れ、ヒンドゥーの司祭と助手の絶え間ないご詠歌の中で行われました。ここで気が付いたのは花嫁がいないのです。これはしきたりで、前夜祭に花嫁が顔を見せることはないとのことです。式は金ぴかの赤色のターバンの豪華な衣装をまとった新郎に対し、やはり着飾った親戚の善男善女が壇上に上がって順々に花婿の顔の前で手をぐるりと廻し、次に水に浸したサフランの花を新郎の顔になで付けてごしごしやるのです。司祭の前には護摩が焚かれています。時々司祭が護摩の中にサフランやら線香やらを投げ入れますから一種独特の香りが漂います。花が顔中に付きますが新郎が自分の手でそれを払い除けてはいけないようで、横にいる母親と妹がそれを手や布で取ってやります。そんな行事が1時間半も続いた後に、肉なしの野菜のみのカレーライスをバナナの皮の上で頂きますが、手では食べられませんのでスプーンを所望しました。お酒は用意されていなくて、缶ビールを頂きました。兄の世話をする妹が絶世の美女に見えました。

(右写真)いろどり豊かなサリーを身にまとい、緑色の宝石の額飾りをつけた姿はすばらしい女性に見えました。この日の参加者は100人くらいだったでしょうか。

(2日目以降の話は次号でご紹介します。)

2007年5月号掲載

≪バリ島旅行≫

前田 剛資(昭39工)

インドネシア在住の池田雅彦さん(昭39工)からバリ旅行はどうですかとのお誘いを受けました。4月初めに休暇が取れるとの連絡を頂き、さっそくJTB三宮支店へ行き、バリ島ツアーの説明を受けるうちにこの頃の便は10席前後しか空いていない事が判明。急遽、13席空席のある4月4日のJAL便の席をその場で押え、搭乗者名を急いで連絡するという予期せぬ展開となり、BRB誌上での案内は断念することになってしまいました。

今回のバリ島旅行はビーチリゾート(ヌサドゥア)、緑豊かな高台のリゾート(ウブド)に各2日間の4泊6日の行程です。
4日深夜、現地で合流の池田さんを加えた7夫婦、14名がデンパサール空港に到着しホテルへ直行。さっそく池田さんがバリに詳しい友人の情報をまとめた労作の資料を配り、今後の予定を眠い目をこすりながら打ち合わせました。もちろんこの池田情報のおかげでバリ島の主なポイントを前半で効率良く観光し、後半はウブドでゆったりとした時間を過すことができたことは云うまでもありません。池田さんに感謝、感謝です。

まずビーチリゾートはミュージカル「南太平洋」を思い出させるすばらしく青い海ですが日差しが 強くどちらかというと若い人向きで、前半はバスをチャーターし、ショッピングと観光となりました。
特にバリヒンズー教総本山ブサキ寺院では210日に一度のお祭りの真っ最中。多勢の信者が家族そろって綺麗な民族衣装で正装し、お供え物を頭に乗せお参りする光景は強い信仰心にあふれていて感動的でした。

後半のウブドではジャングルを流れる渓流と豊かな水田に囲まれた広大なリゾート。ここでは特にスパ&エステが好評で、ご婦人はもとより旦那もそろって至福の時間を過しました。皆さんまだまだ磨けば光り輝くことを確かめ合った次第であります。また、渓流沿いの2つのプールでは甲羅干をしたり、絵を描いたり、また1杯やったりと思い思いの時間を過しました。

ところでバリでの食事ですが我々の口に合う程良い甘辛味の美味しいもので、そろってBINTANGビールを傾け、連日楽しい会話が飛び交い大いに盛り上がりました。海外旅行でこれほどゆったりした時を過すのは私ども初めてのことで心に残る旅となりました。

さて、このバリ旅行を3回の連載にして欲しいとのことで、次回古武さん、池田さんの順で投稿いたします。1回目は旅行の概要を紹介させていただきました。

≪サワディ カップ(タイ旅行記)≫

渡辺 義博(昭58商)

3月14日夕方、バンコクに昨年オープンした新しい国際空港スワンナプーム空港に20年ぶりのタイ上陸。20年前、アメリカの航空会社に勤務していた頃タイに訪れ、一日中ホテルに缶詰めで会議と研修を受け終了とともに帰国したので、観光らしきものは一切なかったが、今回は報償旅行で観光三昧の旅であった。

空港を出ると夜の6時を過ぎているのに30度を超える、ここは熱帯モンスーン気候である。丁度日本は暖冬から寒の戻りがあり、10度以下だったので、この差は少々厳しいかな? 市内のホテルへ向かうバスの中からの景色は20年前とは大違いであった。高層ビル、高層ホテルが立ちならび、日本企業の広告がバスの窓から次々に飛び込んできた。経済も急発展しているようだ。中国、ベトナムの次はタイがくるかも?

ホテルにチェックインした後、会社の仲間4人でタイ式マッサージに行くことになり、ガイドさんから教えてもらった店をタクシーの運転手に英語で告げると、「マッサージ アンド ガール?」たどたどしい英語が返ってきた。こちらが「YES SIR」と返すと、にやにやして車を発進させた。タクシーが3階建てのビルの前に止まると運転手は「35バーツ」と告げた、日本を出る時1バーツが約3.5円だったので約120円、4人なので1人30円、安すぎる!4人ともびっくり! 店に入ると、数人のタイ人の女性が胸の前で手を合わし、いつもテレビで見るポーズをとり「サワディ カッ」と微笑みかけてくれた。フロントのマネージャーらしき女性に「4人タイ式マッサージお願いします」と言うと、「1人3000バーツ」と返ってきた。ガイドさんからは500バーツぐらいと聞いていたので、英語でやりとりし解ったのだが、ガイドさんから教えてもらった店ではなく、俗に言うタイのソープランドに連れてこられたのだ。夜、ホテルから日本人男性が4人タクシーでマッサージに行ってくれと言ったので、運転手が気を回したのか、それとも運転手がその店からお客を連れていった見返りにコミッションをもらったのかわからないが、タクシーを呼びガイドさんに教えてもらった店に向かい500バーツのタイ式マッサージをうけ、初日を終えた。

2日目 市内観光、朝からワットポー(暁の寺院)、エメラルド寺院、王宮と見学して回った。チャプラタ川(メナム川)の両岸に向かうように寺院は建っていて、その間をフェリーで川を移動していくのだ。川の水は最悪で淀川よりも汚いと思うぐらいだった。 寺院のまわりにはお土産物屋と屋台が乱立していた。その中をバスから降りてきた日本人の団体さんに現地の方が物を売りつける言葉はたどたどしい日本語であった。日中の気温は36度を超え、市内観光を午後もつづける自信がなく、中華レストランで昼食後、我々4人は団体から離れ、2回目のマッサージに向かった。ガイドブックに載っていた有名店に予約をした。そこは一軒家でタイの有名人や女優たちも訪れる店だそうだ。今度は3時間のヒーリングコースを選んだ。スクラブ、サウナ、2人がかりのオイルマッサージを受けた最高のリラクゼーションを経験した。その料金は日本でうけると倍以上するそうだ。その後タイ式ボクシングをリングサイドで見学した。前から2列目で、ボクサーの汗が届くほどのところで初めてタイ式ボクシングをみることができたのは大感激、目の前でKOシーンを見ることができたのはラッキーだった。午後10時ボクシング終了後、日本人が多いハッポン通りにタクシーで向かい、旅行会社の友人から教えてもらっていたクラブで小1時間タイ女性たちにタイ語を教えてもらいながら合コン。またまた、男4人大満足で2日目を終えた。

3日目は自由行動日。昼間はバンコク南ロータリークラブメイキャップ。このクラブはバンコク在住の外国企業に勤めている方が多く、英語でのアンチエージングの卓話を伺った。夜、バンコクで水処理の会社を立ち上げた友人のケン君(タイ人で大阪大学に留学していた)とシャングリラホテルで待ち合わせして、チャプラタ川のリバークルーズを楽しんだ。昼のチャプラタ川と180度違って、沿岸の高級ホテルの夜景、電飾に覆われたボートが川を行き交い、最高のアジアらしい景色を楽しむことができた。

4日目最終日。朝から旧都アユタヤ観光に出発。ビルマとの戦いの中で残ったお寺が世界遺産に選ばれているそうだが、少々がっかり。それよりも歴史の教科書にでてくる山田長政の日本人村があり、驚きました。確か、あの時代はシャム国だったかな? 昼食後、バンコクに戻り、団体旅行では必ずよる免税店に行き、タイシルクをお土産に買い、最後の夜はタイ料理でお腹を満たし、空港に向かい帰国の途についた。

最後におもてなし精神にあふれていた“微笑の国”タイに“コップンカッ”

≪パース旅行≫

井上 光(昭35法)

昨年12月スペインのオビエドへオペラを聴きに行ったメンバーで、またコンサートへ行って来ました。

今度はオーストラリアのパースです。
関西フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者の藤岡幸夫さん(昭59文)が2年に一度西オーストラリア交響楽団を指揮する演奏会でした。3階席まであるパースコンサートホールが満員の盛況でした。

曲目は日本ではあまり演奏されないトランペット中心の曲目でした。ヤナーチェックの「シンフォニア」はトランペットを14本も使う勇壮な演奏でした。

演奏会は夜8時開演、終了後10時ごろより有力関係者によるレセプションが行われ、日本からのサポーターである我々も参加しました。そこには西オーストラリア総領事の井上氏(塾員昭和49年法卒)夫妻(奥様も塾員)も出席しておられ藤岡さんも含めて塾の同窓会の雰囲気でした。

この日を含めて昼は観光(ピナクルズ4WDツアー。ワインクルーズ。ロットネス島ツアー等)夜は会食にと楽しい実質4日間を過ごしてきました。オージービーフもシーフードもとても美味しく、いつまでも心に残る旅でした。

≪オーストラリアの旅≫

菊田 義正(昭42商)

平成19年4月10日から17日まで銀座慶應囲碁同好会による第4回オーストラリア(ブリスベン)囲碁親睦旅行に参加した。メンバーは慶應囲碁部OBを中心とした総勢18名。関西からは2名参加。

慶應先輩が所有するブリスベンの豪華ビラに滞在し、そこが囲碁の会場でもあり旅というより正に「囲碁合宿」であった。

碁会は主に夕食後が多く、昼間は自由時間が結構あったので、観光を一切せずにゴルフ3回、カジノ2回、競馬1回を選択。

〔ゴルフ 〕3つのゴルフ場それぞれ特徴あり。
◎ブリスベン近くのゲインスボローGC・料金69豪㌦。カンガルーがフェアウェイに沢山いて近寄っても逃げないのにはビックリ。打ったボールが当たるのではとヒヤヒヤ。
◎ゴールドコーストのロイヤルパインGC・料金110豪㌦。名門だけに広々とした美しく素晴らしいコース。
◎ブリスベンのパシフイックGC・料金49豪㌦。安いと喜んでいたら芝のメンテが悪く、フェアウェイどこでもティーアップありといわれガックリ。

〔カジノ〕ブリスベンとゴールドコーストと雰囲気の違う2箇所にチャレンジ。ゴールドコーストのカジュアルさに対しブリスベンは建物が趣のある欧風の格調高いカジノで改めてゆっくり行ってみたいと思う。賭けは若干のプラスが出て想定外の幸せであった。

〔競馬〕上着、ネクタイ着用。貴賓室で食事をしながら競馬見学。女性が多く目一杯のお洒落をしていて華やか。上流階級の社交場を垣間見、イイ体験になった。賭けは想定内の負け。 
さて本題の囲碁は参加者同士のリーグ戦、ブリスベン囲碁クラブとの親善試合、その他連日深夜までの自由対局。それもワインを飲みながら・・・もうフラフラ。
英会話が全く出来なくても外人とちゃんと囲碁が出来て、心も通じ合えたのには感動。

シドニー周りで帰国したが、最後に大失敗。
飛行機の中で同行者と携帯用碁盤を取り出してパチリ、パチリ。終わった後大きな声で感想戦を始めた途端、前の座席より外人が乗り出して眉間にしわ寄せ怒りの目つき。なんと周囲を見ると知らぬ間に真っ暗。・・・パチリもうるさかったんだろうな!誠に恥ずかしい限り。

学生時代落ちこぼれでも囲碁部をやめずに良かったなあ!それにしても遊ぶということは体力がいるもんだと改めて再認識。
よし!これからは体力アップに努め来年も参加しよう!

2007年4月号掲載

≪私、トットちゃん?≫

青戸 統子(昭29文)

小学校の担任の先生が国文学専門であったところから、読書や詩や俳句など豊かな指導、更に狂言を見に能楽堂へも連れて行ってくださった。よい先生を与えて下さった神様には本当に感謝であった。特に作文は「面白かった」「楽しかった」という言葉を使わないで、その気持ちが人に伝えられるようにしなさいと教えられ、苦労はあったけれど、おかげさまで語彙が豊富になり、その後の人生に計り知れぬほど役に立ってきた。

女学校は各小学校から1名しか入れないという難関であったが、付属と私達の学校からは15名ほどパスして親は大喜びであった。入学しても特に勉強するでもなく、相変わらず気楽に本ばかり読んでいたら、「来週から中間考査です。」の通達も、意味がわからぬままに突入。考査って試験のことだぁと当日になってから初めてがってん。結果は目も当てられないこととなった。

気がつけば周りは物凄く賢い子ばかり

ある日、国語の時間に、守るという字をモルと読みますと答えた子に、どうしてわかりましたか?との先生の質問。すぐ立ち上がって「はい、明治天皇の御製に“子らは皆 戦(いくさ)の庭に出ではてて 翁やひとり山田(やまだ)守るらん“とありますので、そう読むのではないかと思いました。」(中学1年ですよ)を聞いた時は、ヒェーと椅子から転げ落ちそうになった。工作も糸鋸で自分で作らなければいけないと頑張って不細工な作品を提出したら、他の人たちは皆誰かに作ってもらっていた。

苦手な家政の時間。これも、トイレの掃除の仕方など、他の子が「はい、棒の先にボロ布を巻きつけ、塩酸を付けてこすります。」と答えるのに、エ塩酸?と又してもひっくり返った。

授業はすすみ、戦時下燃料が無い時に暖をとるには?との先生の質問にハイハイと、綿入れ、ふとんなど、答えが出尽くした。私は2、3日前に読んだ本で、『それまで、せんべい布団しか知らなかった美代はお屋敷に奉公に上がって、初めて・・・』とあったのを思い出して、コレだっと手を挙げた。「まあ珍しい。ハイ貴女」と、私がひそかに小公女をいじめる“ミンチン女史”と名づけた先生は、眼鏡をキラッとさせながら、このアホ娘がどうしたの?と言わんばかりにあてた。『あのォ、お煎餅』と言いながら、自分でもこりゃ又失敗かと、おせんべいのくずで暖かいわけが無い事に気がついたが、後の祭りこれで、“変わった子“の定評はゆらぎないものになった。

まぁ、得意な学科もあり、何とか付いていっていた事は付け加えるけれど、一人っ子で世間の冷たさも知らず、勉強なんかしてないという言葉を真に受けてこれから散々な目にあう序曲だった。 
やがて、疎開して更に優秀な女学校へ転校する。 そしてトットちゃん全開となるが、又のことに。

≪食べた、食べた~~!!≫

川崎 洋子(昭53文)

韓国で食べて来ました。

あるときTVで東大門市場近くで「タッカンマリ」という鶏鍋を食べて「美味しい!!マシッソヨ」を連発していたのを見て是非食べたいと思っていました。

地図を頼りに歩きに歩いてやっと見つけたのは地元の人で満杯の店でした。表にテレビ取材の張り紙がしてあります。間違いない、ここでしょう。案内されて座ると同時に鶏1羽が入ったお鍋を持ってきて火をつけると、はさみで鶏をチョッキチョッキ切ってくれます。どうもこの店は「タッカンマリ」だけのお店なので、座るとすぐにタッカンマリが出てくるらしいです。唐辛子、からし、酢、醤油?を調合してタレを作ってくれます。真っ赤ッかで辛そう・・。スープをまず一口。

美味しい!!

次に作ってもらったタレにつけて食べてみます。おや、これがなかなか美味しい。見た目よりも辛くない。白菜キムチがまたおいしい。鶏を食べたら細長い餅を入れて食べ、そのあとはうどんを入れて食べます。韓国のお餅もおうどんも 煮込んでもくずれません。

お酒は、ビールはメクチュ、焼酎はソジュ、白い濁り酒はマッコリ、これもなかなかいけます。こんなに満腹でこんなにお酒を飲んでひとり1000円!!信じられないくらい安い。日本人が行かない店だから、安かったのかも知れませんが・・・。

東大門からロッテホテルワールドまで地下鉄に乗って900Wこれも115円ほど。11駅もあるのに、安い!!

韓国で感心したこと。地下鉄では、さっと老人に席を譲ります。日本人が寝たふりして席を替わらないのとは大違い。道を尋ねるとわざわざ日本語ができる友人に電話してまで教えてくれます。スーパーでも韓国海苔の場所を尋ねると、案内した上「これがいちばん美味しい」と選んでくれました。さすが儒教の国、顔は無愛想でも心やさしい、これが私が感じた韓国です。

≪老人力昂進症症例報告≫

金刺 達夫(昭42経)

一時、老人力という言葉が流行ったことがある(1998年度流行語大賞)。画家であり芥川賞作家でもある赤瀬川原平さんが言い出した。当時は自分にはまだ縁が無いと思ったが、大らかな前向きの姿勢に心から賛同した。路上観察でも知られた赤瀬川さんは三省堂新明解国語辞典の謎にも挑戦されている。赤瀬川さんのユーモア溢れるエッセイはわたしにとって睡眠導入剤だ。

さて、五十肩とも縁遠くなりしばらく老人力が停滞したつもりでいた。だが、つい先日、その進行を痛感させられる出来事があった。

この冬、家内の勧めでズボン下の代わりにタイツを着用している。これが思ったより具合が良い。暖かいだけでなく身が軽くなったような気がする。時には白鳥の湖の王子様になったような気分で爪先立って道を歩いている自分に気付き、危ない趣味に染まりかけているのではないかと感じることもある。

そんなある日、三宮の碁会所で碁を打っていた時のこと、小便に立ちファスナーを下ろしてからあるべき所にあるべき物が無いのに気がつき愕然とした。わがイチモツのことではない。その出口が見つからないのだ。なんたることか、タイツを後ろ前に穿いていた。あいにく大きい方は人が入っていて使えないため、穿きかえることが出来ない。とりあえず用だけは済ませて席に戻ったが、その日はとうとうそのまま通してしまった。家に帰って家内に話したところ、喜ぶまいことか涙を流して笑っている。そして言うに事欠きこう言った「これからはオムツを着けて行ったら。」

なるほど老人力アップには若返りという側面があるかもしれない。良寛さんをイメージすると童心に返るというのも悪くない。だがオムツまで行くのはまだ早いだろう。今年は若返ってもせいぜい鼻ピアスぐらいに止めておきたいと思った。

(囲碁同好会と少しは関係のある話でした。)

≪芦屋三田会で高島哲夫氏講演≫

3月8日に開催の芦屋三田会・関西不動産三田会合同例会(於:ノボテル甲子園)で、当倶楽部会員のミステリー作家高島哲夫氏(昭48工)が講演。

「ミッドナイトイーグル」の映画化決定から制作に至る裏話や、出版に関する裏事情等とても興味深いものであった。

2007年3月号掲載

≪神戸ダウンタウン・長田を歩いてみませんか?≫

河野 忠友(平1商)

およそ神戸のお洒落な雰囲気からは程遠い、靴工場のガチャンという裁断音、ゴム工場の煙突から吐き出される煙、焼肉店には強烈な臭いが充満し、ガキ大将たちが路地ではしゃいでいる、私の職場がある長田のイメージはこんな感じでしょう。一方長田は実に1800年もの歴史を持つ長田神社の門前町でもあり、神戸三社(生田・湊川・長田)で最も由緒ある神社と云われています。節分に行われる神事「追難式」は古式ゆかしく一見の価値があります。さらに私の出身高でもある県立長田高校は旧制三中時代に映画評論家の淀川長治さんや、宮崎辰雄元市長さんほか多くの著名人を輩出しています。妹尾河童の「少年H」にも三中が登場する件があります。このように長田には猥雑な下町文化と文教的側面が混在する不思議タウンなのです。

私の仕事は長田の地場産業である靴づくり。そのために長田へ戻り15年近く経ちましたが、人情味溢れ、またアジア各国の文化が交錯する長田は実に面白く、また実に美味しいところでもあります。

靴の町長田のシンボル「シューズプラザ」ではオーダーメイド職人が世界に1足しかない靴を作ってくれます。また全国的にも有名になった「そばメシ」や「スジ入りお好み焼」は「ばらソース」で食するのがジモティー流。他にも「平壌冷麺屋」の辛辛のピビン麺は絶品ですし明石で水揚げされた昼網のお魚は安くて旨いのが当たり前。最近ではベトナム人が経営するベトナム料理店ができたりして、さしずめアジアB級グルメのフードコートのようです。

ここでひとつ豆知識です。今や全国区の知名度になった長田名物の「そばメシ」ですが誕生秘話をご存知ですか?実は靴の町と密接な関係があるのです。時は高度成長期、長田の靴は米国などに輸出され町は大活況を呈していました。当時靴製造を支えていたのが貼工と呼ばれる女工さんたち。朝から晩まで靴を作り続けました。子供達が放課 後帰宅してもお母さんはまだ仕事中で夕食の時間はまだ先。そこで朝の残りのご飯を近所のお好み焼屋さんに持ち込んで焼き飯を作ってもらって空腹を満たせるおやつにしていたのです。そのうち焼きそばを一緒に混ぜたらもっと美味しいやん!という子供の発想からそばメシが誕生したのです。

こんなところですが是非一度新長田駅、高速長田駅で下車され、普段着で楽しめる不思議ダウンタウン長田を歩いてみては如何でしょうか。新しい魅力に触れ合うこと請け合いです。

ご案内は神戸慶應倶楽部長田ナヴィゲーター 河野忠友でした。

≪香港にて≫

小林 大祐(平11商)

昨年9月に入会させていただきました、香港在住の小林でございます。旧正月のお休みをつかって書いてみました。

香港では、旧正月の典型的な挨拶は「恭喜發財」(ゴンフェイファーチョイ)といいます。新年にあたって、相手の金まわりがよくなることを願い、祝ってあげるわけです。日本ではちょっと考えられない新年の挨拶ですが、中華圏ではお金をもうけることに対する考え方がオープンであることをよくあらわしているといえます。

今、香港経済は中国本土ビジネスの需要をうまく取り込み、好景気が続いています。昨年度は中国系企業の香港株式市場への上場も相次ぎました。このように今、香港は資金を調達したい中国系企業と中国への投資を拡大したい外国人投資家の橋渡し役としての役割をうまく果たしています。 例えば、史上最大規模だった中国工商銀行のような大型上場案件ともなると、我先にと申し込みをする人で町中の銀行に長蛇の列ができました。その倍率たるや100倍近くにもなり、老若男女問わず、香港中の人が申し込んでいたのではないかと思わせる熱狂ぶりでした。

マネーゲームの過熱には注意が必要ですが、香港人の場合、これまでの経験と十分な知識に裏づけされていることも多く、大変勉強になります。新規上場株式はもとより、ベトナム、インドといった新興国にも早い段階から積極的に投資している人が多くいました。そして富裕層に関していえば、現在の財産をいかに次世代に継承するかということにも真剣に取り組んでいます。

日本は低金利政策が長く継続されていることもあり、金融資産からの収入を増やしていくというよりは、いかに金融資産を減らさないか、またどのように事業からの収入を増やすかいうことに主眼がおかれています。

しかしながら高齢化社会を控え、国内の労働人口が減少の一途をたどる中、金融資産からの収入、それも海外における投資機会を逃さずとらえることがこれからますます重要になってくると考えられます。海外における金融資産からの収益を国内に還元することで、個人の家計が潤うばかりでなく、国家財政収支もバランスが取れるという、そのような時代が近く来るのではないでしょうか。

そしてそのような時代が来たとき、私たちが相手とするのは、お金に関して大変敏感な、リスクを取ることをいとわない中華圏の人々なのだということを肝に銘じていなければいけません。その時のためにも、常日頃から世界に散らばる投資機会を逃さない目を養っていることが欠かせないと思われます。

2007年2月号掲載

≪門出の年≫

堀 雅博(昭54経)

今年50歳を迎えます。「いそじ」であります。何となく、「イソジン」を思い浮かべてしまいます。うがいをしろ、もっと身を清めろ、という戒めでしょうか。

半世紀、どうにかこうにか生きてきたわけですが、今年は私と家族にとって門出の年・節目の年となるようです。

まず、私。1月1日付けで転職をし、中央三井信託銀行・塚口支店での仕事が始まりました。正月気分もどこへやら、1月4日から東京で研修を受け、今はお店で研修中ですが、2月からは独り立ちして、お客様の資産運用相談を始め遺言・不動産のご相談等、第一線でまた頑張ります。応援、宜しくお願いいたします。そして、夏か秋には稽古3年となった合気道で初段の審査を受け、50歳にして黒帯・袴が許されるかもしれません。楽しみです。身も心も引き締まる思いです。

嫁は嫁で着物の着付けを修行しておりましたが、この春に師範を許されるところまで来たようです。
次女は中学受験を終え、仁川学院中学での新しい生活が始まります。

そして、長女。昨年仁川学院高校に入学したものの、同時に病を得て長期入院。つらい薬に耐え、手術に耐え、何とか今年の4~5月には退院・復学が適う予定です。彼女にとって昨年は希望に満ちた日々から絶望へと突き落とされた年だったわけですが、入院生活の中で、絶望を克服し、自分の病を受入れ、荒れる姿を親に見せることもなく、辛抱の日々を送ってくれています。これは、相手の攻撃に対して真正面から押しつぶされず、といって逃げることもなく、相手の側面に入り身で入って相手を崩し、技を掛ける合気道の動きにも似て、彼女は病気入院という修羅場においてその精神・技を会得したようにも思えます。本当に退院と高校復学が待ち遠しい。

そんなこんなで、家族それぞれ新しいスタートを切ることになりました。

「獣身を成して、後に人心を養う。」

まずは健康で生活できることの有り難さを噛みしめながら、充実した一年にしたいと思っております。皆様のご健康も心よりお祈りいたします。

≪スペインでのオペラ観劇≫

藤井 文明(昭39工)

昨年12月15日から23日まで、初めて訪れる国スペインへ行ってきました。目的は塾員かつ神戸慶應倶楽部会員でもあるオーケストラ指揮者の藤岡幸夫(昭59文)が、同国北部にあるオビエドの歌劇場にて行われたオペラを指揮する応援団として行く事にしたものです。折角スペインへ行くのでオビエドを主目的に、首都のマドリード、ローマ時代の水道橋が残るセゴビア、巡礼の道への中継地で、旧レオン王国の首都レオン、建築の鬼才ガウディーが残した聖家族教会があるバルセロナを巡るツアーを組んで、実質7日間の旅を満喫してきました。関空から出発したのは、井上夫妻、古武夫妻、村田幸恵さん、萬野さんと藤井夫婦の9人で、東京出発組とマドリードで合流し、合計17名のこじんまりした中年の楽しい旅になりました。

12月18日の夜にオペラを鑑賞しました。演目はベンジャミン・ブリテン作曲の「ねじの回転」で、皆様はあらかじめDVDで勉強されていたので理解が深まり、ほぼ2時間の上演があっと言う間に終わってしまった感じでした。その後に歌劇場を出たすぐのところにあるバール(軽食とお酒がある手軽な店)で、大成功であったオペラを喜び合う為、全員が打ち上げパーティーをして、ホテルに帰ったのは夜中の0時頃でした。

オビエドはとてもきれいな町です。いつ家庭ごみを出しても毎日夜中の間にごみ収集してくれるそうで、確かに石畳みの道路にごみ一つ落ちていないとても感じのいい町でした。

再来年(2009年)の9月には又同じ歌劇場で指揮する契約ができたとのことで、早くも又行こうとの気持ちになっています。

2007年新年号掲載

≪私の戦い 3≫

斎藤 光豊(昭24経)

○戦さよりかえ還りしよなか夜半我が頬を二度な撫ぜ安くい寝ねたり父は

○戦さより還りし我の頭な撫ぜ有難うよと母は泣きたり

○戦さよりふくがく復学をせし学園祭還らぬとも学友を数えていたり
『故郷の廃駅』

○廃駅のプラットホームあゆみたり学び半ばにゆ征きし日とお杳く

○ゆ征きし日の機関車蒸汽をふ噴きあ擧げぬ杳きまぼろし幻としてあるベンチ

○人はゆ征き人は還らず廃駅に墓標の如き折れしシグナル信号機
『センチメンタルジャアニィ』

○共に若き士官にてありし我がとも戦友に花束捧げ語らんとせり

○むそとせ六十年を抱きし思いとも戦友眠るマラッカの海に花束捧ぐ

○生きてあらば語りあうべきいく戦さ場をポートマラッカ波靜かなり

○みづみづと我が追憶に息づきて若き士官のびもく眉目りん凛たり

○スコールよ激しくな降りそうなぞこ海底のとも戦友我が叫びにこた応えいるやも

○うなぞこ海底にどうこく慟哭聞こゆ我がとも戦友が散りしははたち二十この海ぞマラッカ

○あれはうなぞこ海底のとも戦友のどくろ髑髏が吹く笛か風に途切れてま再たひゅうと鳴る

○えいごう永劫の海の底なる我がとも戦友をみなわ水泡よ包め花となりつゝ

○お堕ちてゆく祖国をた矯める得るすべ術もなくとも戦友果てし海に声擧げてわ詑ぶ

≪上村達雄先生のこと≫

松岡 美佳(昭60文)

会員の皆様、すっかりご無沙汰しておりますが、お元気でいらっしゃいますか。さて、会員で慶應の元文学部教授で、退職後、神戸学院大学で教えておられた上村達雄先生のことについて、お知らせいたします。

先生は芦屋にしばらくお住まいで、当時神戸慶應倶楽部によく出席されておられましたので、古くから会員の方はご存知ではないでしょうか。その後先生は奥様のご病気(アルツハイマー認知症)の関係で、千葉の方へ移られました。
先月、先生から『私のガンはお喋りだ』というご本をいただき、愕然としました。あとがきに「どうせまたなんらかの形でお会いできるのですから、さよならなんて申しません。」と書かれていました。
先生は6歳年上の奥様を今年8月に亡くされ、(先生は86歳です)その後の手紙のやりとりで、車椅子の生活を送っていらっしゃることがわかりました。手紙では、先生は独りになり、非常に孤独感を募らせていらっしゃることや、神戸慶應倶楽部での日々を大変懐かしく思っていらっしゃることが、認められていました。
やはり父を五月に癌で亡くした私はいてもたってもいられない気持ちです。そこでもし先生とご面識のあった方々がいらっしゃいましたら、ぜひ先生に葉書やお手紙、神戸慶應倶楽部や神戸の思い出となるものを送っていただきたいのです。
住所は名簿にも記載されていますが、〒299-5112千葉県夷隅郡御宿町御宿台132-3404です。万一趣旨に賛同して下さる方が多いようでしたら、上村先生のお近くに置けるようなプレゼントを相談の上お送りすることもできるかもしれません。取り急ぎ皆様へお知らせまで。

なおこの件につきましては、松岡個人の呼びかけですので、問い合わせ等は倶楽部事務局ではなく、私の方へお願いいたします。
(連絡先:携帯電話09056533501、携帯メールm-2.redington-gardens.london@docomo.ne.jpなお日中は仕事のため、電話に出られないことがあります。あしからずご了承下さい)