会員の輪

2004年

六拝 英彦(昭44法・阪埜)(昭46経・川田)

小西 康博会員より

≪自己紹介≫

昨年入会した芦屋三田会員のビジターとして、東天閣に続きホテルオ-クラでの例会に出席、ゼミの先輩や同じ学部の後輩、高校も同じ方々との楽しい出会いに「いつかまたビジターで」と思っていました所、指名され自己紹介した後、五代会長から「私も川崎重工に勤務していた。

今後も出席するように。」とのお言葉を貰い入会させて戴くことにしました。オークラで会った法学部後輩の二人の優れた弁護士には、早速抱えている近隣との裁判についてお世話になっています。

4年前の秋、初めて訪れたニューヨークに着いた夜、偶然塾長出席のNY三田会があり出席、そして芦屋三田会から神戸へ、また過日の赤穂へのバス旅行にも参加しました。名前が珍しくよく尋ねられますが「六拝(ろくはい)」姓の出身地は西宮です。が、父母共に養子・養女で、父は神戸(住吉)、母は芦屋の出で、実は父方の祖母の実家が赤穂浪士の末裔です。バス旅行が雨で、行けなかった四十七士の墓のある花岳寺には、過日改めてお参りしてきました。何となく「見えざる手」 に誘われているような心地で、会の席に座らせて戴いています。

小西 康博(昭31法)

宮田 昌平会員より

≪私の履歴書のようなもの≫

私は大阪生れの神戸育ち。岡本の「光の園」幼稚園、本山第二国民学校、甲南中学、甲南高校の出身です。在学中、ラグビーに専念したが、中3の頃は選手不足の高校の試合に駆り出されていた。 

塾では高3の時の左足膝に食らったセービングがもとで靭帯がゆるんで大学の猛練習で水が溜まり、この慢性関節炎をだましだまし酷使するコツを覚え二軍として一軍を苦しめ、全勝優勝した4年生時代は指導に来たOB連をして「どっちが一軍だ」と云わしむる等、張り合いのある感動の最終学年であった。この仲間達のつながりは今なお健在である。

中部電力時代は電柱や変圧器をエンヤコラと担ぐ電工さん達とラグビーを楽しみ全国電力大会では各電力の地元へ転戦した。その間メンバー不足の中電ボート部(伝統あり)に駆り出され、エイトやナックルフォアを漕がされ全国社会人大会等に4~5年参加し、夏はボート冬はラグビー、夜は酒の若きサラリーマン時代であった。

昭和47年、我々黒黄会(ラグビー)、漕艇倶楽部(ボート)が中心となり東海三田体育会を発足させ、この10月には第26回を中電クラブハウスで135名が相集うた。毎回飲むわ、喰うわの大盛況である。

中電卒業後は10年余り他社にお世話になったが望郷の念止みがたく、3年程前ポートアイランドに居を求め、全面的に引き上げて来たのは今年5月25日、奇しくも私の御生誕の日であり湊川神社のお祭りの日、即ち楠正成公が湊川で討死をした日であります。従って私、ガキの頃は「鳴呼忠臣楠子」の生まれ替わりではないかと謳われたものでございます。現在まだ少々名古屋でお手伝いさせていただく仕事もあり月に10日程は訪名いたしております。従って東海三田体育会、東海甲南会顧問会とこちらでは、関西黒黄会、関西丸八会、神戸甲南会、本山村甲南会と本倶楽部に入れていただいております。よろしくお引廻しの程お願いいたします。

宮田 昌平(昭39商)

青山 隆一会員より

≪慶應高校編 若かったねぇ~!≫

昭和32年芦屋市立精道中学校から慶應高校に入った。その時精中から慶應高校に入ったのは初めてで、職員室の先生方が大変喜んでくれたのを覚えている。2年の時編入でU君が入ってきて再会を祝した。当時、東京の連中はませていて、特に中等部の連中には驚いたものだ。東京での生活は父の関係で鐘紡の学生寮に入ったが、高校生は4~5名であった。大学生と一緒なので、すぐに良い事も悪い事も学んだ。遊ぶこととスポーツと食べることに忙しく勉学はその次であった。
今でも覚えているが、ある秋の夜、広場で焚き火をして先輩が盛んに奇声をあげていた。赤線最後の日であったのだ。寮での飯は育ち盛りにしては少なく、ラーメン35円をよく食べた。寮母はご機嫌の良い時は牛乳を温め砂糖を入れてくれた。

新入生で間もない時、サッカー部のキャプテンがやって来てサッカー部に勧誘した。「とにかく、グランドに来いよ!」ひょこひょこ行くと全員が拍手をしてくれ入部となった。このサッカーでの思い出は、部活が終わってからの風呂は、いつもアメラクの連中の後なのでまるで泥のお湯みたいなものだった。腹が減ってしょうがなく2時間目に弁当を食う。昼は赤屋根でのカレーか、グリーン(大学)の定食。グランドホッケーをしていたY君が弁当を2つ持ってきてくれ、京都から来たボート部のO君と替りばんこに食べたものだ。

山中湖での合宿は厳しかった。最終日に山中湖一周(16km)のマラソンがある。1年の時、足が痛かったが走った。帰阪して医者に行くと折れていると言われた。2年の時キャプテンと一緒に一周、その時は1時間をきり2位だった。センターフォードのM君(西宮)とはその頃からの付き合いで現在に至っている。その頃の私は初々しく張り切っていた。(今でも同じだが・・・?)特急つばめで京都から乗ってきた和装の麗人(その頃の印象)と知り合いになって、池袋で時々高級レストランに連れて行ってもらった。後で分かったがT氏の2号か3号であったらしい。おごってくれたのみの関係だが、育ち盛りの時は大変うれしかった。 

また寮祭というのもあった。皆で演劇や仮装行列をしたり、模擬店では焼き鳥屋が一番流行った。コンパでは、お湯の中にちょっとの豚肉と、あとは何でも放り込んで食べた。後は皆で歌うのだが、文面では紹介できない歌もあった。そして六大学の校歌でお開き。近所の洗濯屋の娘さんが憧れの的。金が無くなれば質屋に。その他色々あり、(チャーミングレディ、二子新地前、自由ヶ丘、池袋、渋谷、銀座etc.・・・)思い出は尽きない。またね!

青山 隆一(昭54商)

工藤 守会員より

≪はじめまして≫

今回、リレーエッセイのお話を頂き、何にしようかと考えましたが、今回は自己紹介をさせていただこうと思います。

私は、昭和54年に商学部を卒業し、山陰合同銀行に入行しました。地元の米子から鳥取を経験し、中小企業診断士資格取得のために1年間東京で研修を受けたのち融資部に勤務。今はやりの企業再生、リレバン、M&Aなどの分野の仕事を約13年(間に支店勤務3年あり)経験したのち、広島、神戸と山陽側の支店勤務となりました。今年で銀行員生活25年の節目を迎えております。

そもそも私は山陰地方の出身でありますが、神戸島根県人会会長、副会長が塾出身であることもあり、神戸慶應倶楽部を紹介していただきました。
若い頃の理想としては、若いうちは「都会」で生活し、年をとったら「地元」がいいと思っておりましたが、現実は全くの逆となっております。(単身赴任2ヵ店目)単身生活に慣れたこともありますが、年をとってからの「都会」というのが、こんなに便利なものだとは思わなかったのが実感であります。若い頃に「家」を建ててしまった(もちろん借金です)のを若干後悔しております。

私が神戸に着任してから1年が経過いたしましたが、この1年を振り返ってみて感じる点が二つあります。一つは、都会と田舎では「時間」の流れがずいぶんと違うこと。もう一つは、神戸の社長さん方が何事にも積極的にチャレンジしておられるその姿勢です。「神戸」発の全国銘柄が多いのもこのあたりに起因しているのかも知れません。

ということで、公私とも楽しい都会生活を満喫しており、銀行員生活25年の中で今が一番充実していると感じております。
未熟者ではありますが、会員の皆さん、今後ともよろしくお願いいたします。

尚、私は「松江観光大使」という仕事も委嘱されており、松江の諸施設の割引券を持っております。ご利用希望の方は申し付け下さい。
対象施設:松江城、武家屋敷、小泉八雲記念館、堀川遊覧船、松江フォーゲルパーク(花と鳥の楽園)

工藤 守(平4商)

山上 高弘会員より

≪茶道とわたし≫

私は1992年に三井住友銀行(旧住友銀行)に入行して今年で12年が経ちます。
茶道と私のつきあいも社会人人生と時を同じくして始まり現在に至っており、現在では私にとって切っても切れない存在になっています。

私は就職して6年ほどは東京勤務でした。
茶道については祖母が茶道をやっていた事もあり、以前より興味は持っていたのですが、なかなか始めるきっかけを得られずにいたところ、同じ職場の先輩が茶道をされているとのことで紹介してもらい、東京浅草橋の先生の許で表千家茶道を習い始める事となりました。

以来12年間、途中関西転勤の折、東京の先生より寝屋川の先生を紹介いただき稽古を続けてきました。
私がお茶を続ける理由は二つあります。
一つは「お茶」が自分の周りの社会がどんなに変化しても、常に変わらない「自分の心の在処(ありか)」となっていること。もう一つはお茶の精神や文化に対して尽きない興味があるからです。

私の勤める銀行業界が激動の時代の中で組織変更や合併等でさまざまに変化する中でも毎週土曜日のお茶の稽古場だけはいつも変わりません。普段は例えどんなに忙しくても茶席に入り釜から発する松風の音を聞きながら一服の茶をいただくと日頃の喧騒を忘れて自分を取り戻す事が出来ます。

また、茶碗や掛け軸など様々なお茶道具に対しては本当に興味が尽きません。茶席ではたくさんの道具が登場します。一つ一つの道具ではパッとしない場合がありますが茶席の中では、それぞれの道具が相互に活かし合って一つの茶会のテーマを表現します。そのテーマを皆で共有し一服のお茶を頂く。そんな場面を何度か経験しますと、文化としての茶道の素晴らしさとその精神の奥深さを垣間見たような気がして感動するのです。

こんな自分だけの「壷中の天」を持つことが出来たのは茶道のおかげであり先生始め稽古場の皆さんには感謝の念で一杯です。今後とも自分の人生の道標として大切にしていきたいと思っています。

山上 高弘(昭52経)

喜多村 晴雄会員より

≪改めましてよろしく! ≫

先月の総会で突然副幹事長を仰せつかり、どうして僕なの?と戸惑っている山上です。
昨年の今頃、神戸慶應倶楽部に入会したばかりの新参者です。同好会は近藤さん率いるゴルフおよびジャズ、市川さん率いるパソコンに参加しております。BRBの記事では今まで、ゴルフ同好会、パソコン同好会での活動について書かせてもらいました。今回は何にしようかと悩みましたが、改めて自己紹介をさせていただくことにしました。

私は昭和52年経済学部卒業です。第118期卒業生に当たります。卒業後、今勤務している石川㈱という会社に入社し、約15年間東京で勤務をし、住いは神奈川県の川崎市に構えておりました。兵庫県南部大地震が起こるちょうど1年前に、会社の人事異動で、家族を引き連れ、神戸市須磨区に引っ越してきました。東京で地震の揺れには慣れていましたが、まさかほんとに地震に出会うとはびっくりするとともに、その際にさまざまな方々にお世話になったなと思い出します。

その後、2年間東京、1年間名古屋での単身赴任生活を経験し、今は垂水区に家族とともに住んでおります。なぜか、八巻さんとはスープの冷めない距離です。

そもそも、神戸慶應倶楽部のことを知ったのは3年前のことでした。この年が、ちょうど大学卒業25年目にあたり、日吉で開催される卒業式に参加するといった大イベントがありました。この卒業式への招待の数ヶ月前に、関西以西に在住で遠方のため参加できない卒業生を対象に前夜祭が大阪で開催されました。これに参加して神戸にOB会があることを知りました。ただ、その時はちょうど名古屋に単身赴任したばかりでしたので会の案内を取り寄せただけでしたが。

その約2年後、再び異動で神戸に戻り、仕事にも慣れてきたころ、おそるおそる神港ビルの神戸慶應倶楽部の事務所を訪問したのが今でも思い出されます。いつからでも入会可能ですよと誘われ、昨年の総会に出席したのが最初でした。その際、たまたま同じテーブルで横に座っておられたのが伊藤さん、鍛治川さんでなんと、両氏とも高校での先輩でもあり、暖かく周囲の先輩諸氏を紹介してもらったことを思い出します。司会役の内山さんに勧められ壇上で自己紹介をしたことも思い出されます。

その後、毎月開催される月例会で、先輩諸氏の有意義な講演を聞く機会に恵まれ、また初めて参加する会場も多く、貴重な経験をつませてもらったと思っています。
五代会長、徳丸幹事長を助ける幹事の一員として、未熟者ですが精一杯やらせていただきたいと思っておりますので、会員のみなさま、よろしくお願いいたします。

喜多村 晴雄(昭57経)

永山 克彦会員より

≪皆さまよろしく≫

国立大学受験に失敗し、塾に拾っていただいたのですが、神宮の早慶戦を観戦し「嗚呼いい学校に入れたな」と実感したのを今でも覚えております。
学生時代は慶應クルージングクラブ(KCC)というヨットの同好会に入りました。なんと年間活動日数250日というとんでもない同好会でありましてNeo Pathos(ラテン語で若き血)という古い木造のクルーザーで寝起きをしておりました。

KCCは昭和39年に人身事故を起こしております関係上、安全には万全の配慮をし、OBの方にも熱心に指導していただきました。また、立ち寄った港で塾旗を掲げておりますと、見知らぬ塾OBの方に差し入れをいただいたこともあり、同窓のつながりを実感した覚えがあります。

卒業後はアーサーアンダーセンという外資系の会計事務所に勤務し、仕事に追われる日々が続いておりましたのでヨットに乗ることもなく(これを「潮気が抜ける」といいます)、塾員としての活動もまったく行えておりませんでした。その反動でしょうか、一昨年に独立してからは関西不動産三田会、大阪慶應倶楽部、大阪JC慶應倶楽部と立て続けに入会させていただき、このたび当倶楽部にも入会させていただいた次第であります。関西に居りながらこのように豊富な人脈と深いつながりを持った会に参加させていただけるのをただただ感謝しております。ただし、潮気は抜けきったままでありまして、陸での芝刈りがもっぱらの楽しみになっております。

アンダーセンには約20年勤務しておりましたが、一昨年の米国での不祥事をきっかけに組織は雲散霧消してしまいました。
現在は大阪にて公認会計士事務所とコンサルティング会社を営んでおります。
微力ではありますが組織改革、業務改革など地域の発展に少しでも貢献できればと思い願っております。何卒宜しくお願い申し上げます。

永山 克彦(昭50商)

横尾 嘉昭会員より

≪よろしく!≫

昨年10月より入会させていただいております。
大学時代はボウリング部に所属し、毎日麻雀とボウリングに明け暮れておりました。当時アルバイトで女子プロ一期生の中山律子さん(恐らくご存知の方は少ないと思いますが)、のスコアー記入係としてテレビに出演(?)したこともあります。

学生時代のボウリングのベストスコアーは279点ですが、現在は150点を出すのがやっとの状態ですので、ボウリングのお誘いは残念ながら全てお断りすることにしております。

さて、塾卒業後は当時の日綿実業(旧:ニチメン、現:双日)に入社し、10年間の米国駐在(ヒューストン5年、ロスアンジェルス5年)を経て平成7年3月に退社、現在は先代の後を受けて、大阪は西区の四ツ橋筋本町界隈で“富士屋”という屋号で不動産賃貸業を営んでおります。
塾関係の団体としては、神戸慶應倶楽部以外に下記に所属しております。

大阪慶應倶楽部、芦屋三田会、関西不動産三田会(不束ながら、代表世話人を仰せつかっております)、関西食文化三田会(美味しいものをただひたすら食べる会です)、関西塾高会(塾高出身者が集まって飲んで食べて騒ぐ会です)、北三田会(北の新地で飲み食いする会です)、藤岡幸夫君(昭59年文)関西後援会(事務局を担当してます)、ボウリング三田会、もうこれ以上は身体も持ちませんし、会費も持ちません。

以上、不動産に関するご相談につきましては是非関西不動産三田会へ、また藤岡君が正指揮者をしている関西フィルハーモニー管弦楽団のコンサートのチケットについては後援会へお問い合わせ下さるようお願い致します。

今後色々な所でお会いする機会が有ると思いますが、何卒宜しくお願い申し上げます。

横尾 嘉昭(平10経)

井上 祥会員より

≪初めまして≫

昨年末の例会から参加させて頂いております。塾卒業後、日本アジア投資(株)に入社し、東京で2年半勤務した後、3年前に大阪に参りました。
東京では身近な所に友人が多かった為、中々新しいことを始めるきっかけがありませんでしたが、ふと大阪に来ることでダイビングを始めることができました。
最初は学生に混じって講習を受けるのが恥ずかしいと思っていましたが、40歳以上の方でも初めてライセンスを取られる方が多く、意外にも自分が最年少で驚きました。経験が浅いにもかかわらず、大物が見れることで有名なメキシコのラパスとロスガボスの海に潜りに行きました。

ダイビングに慣れていない上に、外人だけの集団と一緒に英語で打合せをして潜るのは、自分でも少々無謀かと思いましたが、無事に帰ることができました。残念ながら大本命のハンマーヘッド(金槌のような頭をしたサメ)を見ることはできませんでしたが、ラパス名物の野生のアシカ(シーライオン)の子供と一緒には遊ぶことができました。アシカとは、シュノケーリングの方でも十分楽しむことができます。

コルテス海はプランクトンが豊富なことで有名で、どの魚も日本のよりも1.5倍~2倍以上大きかったです。どちらの海もスポーツフィッシュングが盛んで、潜った感想としては、初心者でも大物が釣れるにちがいありません。

バハカルフォニア(メキシコの西岸)は、昼はマリンスポーツ、夜は皆様のご想像どおり到る所で老若男女が音楽にのってテキーラを一気飲みしている楽しい町です。治安も良く、気分転換には最高の場所なので、皆様も一度行かれてみては如何でしょうか。私は、今度はダイビングクルーズ船に乗って、大物達がいる海を満喫したいと思います。

井上 祥(昭56法)

渡邊 正夫会員より

≪先ずは自己紹介です≫

昭和56年に法学部法律学科を卒業いたしました。父も昭和31年文学部の卒業で、私の生誕が慶應義塾創立100周年ということを幼少の頃から聞かされ父と同じ慶應義塾で学んだ?遊んだ?ことを誇りに思っています。

生まれは東京都新宿区神楽坂で、父の転勤で北九州の小倉高校を卒業し、父が東京から転勤先の福岡に住居を移した事もあり、慶應義塾卒業後は、近畿日本ツーリスト㈱の福岡市内の支店、事業部で海外旅行の営業、営業管理ならびに企画販売管理を23年間してまいりました。

福岡では福岡三田会に所属し年4回の例会には23年間出席し、多くの方々と公私にわたり親しくさせていただき塾員の心の温かさを感じました。昨年10月から、初めての神戸(関西に住むのも初めて)勤務で、唯一の家族の妻(佐世保出身で専門学校の講師)を福岡に残し単身赴任をしています。見るもの食べるものお会いする方々がほとんど初めての経験で、浦上先輩のお言葉ではないですが新人になったつもりで日々生活しています。

神戸慶應倶楽部では入会以来、多くの方々に親しくしていただき2月のオペラコンサートでは目頭が熱くなりました。そして、イーゼル会にも入会し30年ぶりに絵筆を握りました。22年の東京、23年の福岡、妻には今後の人生は神戸で過ごしたいと話している様な状況です。

休日の日曜は、唯一私と一緒に神戸についてきてくれ、初めて関西や本州の道を走ることになった福岡ナンバーの赤い車と神戸や近郊のドライブを楽しんでいます。今後とも、よろしくご指導、ご鞭撻くださいますようお願い申し上げます。

次は、横尾 嘉昭さん(昭56法)にリレーします。よろしくお願いします。

渡邊 正夫(昭48法)

阿部 真一会員より

≪まずは、自己紹介≫

昨年8月に入会させていただきました。(在学中はマンドリンクラブ所属)

昭和48年に電通神戸支局(当時)に入社、昭和55年に電通関西支社へ異動となり、一昨年秋に電通西日本へ出向、神戸支社へ22年ぶりに戻ってきました。と言いましても、電通はご存知でも、電通西日本をご存知の方は少ないのではないでしょうか?

そこで、PRを兼ねまして簡単に電通西日本のことを紹介させていただきます。平成7年に、電通は、東京本社・関西支社・中部支社と、地域電通6社(北海道・東北・東日本・西日本・九州・沖縄)に分かれ、新たな国内ネットワークを構成。その中で、北陸・中国・四国を営業領域にしているのが電通西日本(本社・大阪)です。昨年4月に、電通西日本として新たに神戸支社が開設されました。肩書は、支社次長兼媒体部長兼総務課長、いわば何でも屋です。より卓越したコミュニケーションを、地域に密着した形で展開していきたいと思っております。

是非、お声をお掛け下さいますようお願い申し上げます。

次は、井上 祥さん(昭56法)にリレーします。よろしくお願いします。

輪が大きく繋がってきました。今月号から一重の輪で行きたいと思います。
このコーナーは新入会員を順次紹介していきます。皆さんの自己アピールや趣味の話など自由に書いて送ってください。(編集部)