連載 社中の心

シリーズ第5弾

中神(李) 安邦
(昭和39年文卒)
2003年11月号~2004年1月号

第1話
『タイガー ジャージ』(1)
第2話
『タイガー ジャージ』(2)
第3話
(最終話)
『タイガー ジャージ』(3)

2003年11月号

『タイガー ジャージ』(1)

慶應義塾大学体育会蹴球部の公式ユニフォームは、黒と黄色の鮮やかな横しまで、その色合いが虎を連想するのか、通称「タイガージャージ」と呼ばれている。
 このジャージを着ることができるのは、慶應義塾大学を代表して試合に出場する選手のみの特権であった。そのために、大変な努力が積み重ねられてきたのである。

日本ラグビーのルーツ校

私は兵庫高校(旧神戸二中)時代からラグビーを始めていた。当時の兵庫高校ラグビー部は、兵庫県下では敵知らず、強かった。高校ラグビーを基礎に、私は昭和三十五年に慶應義塾大学入学、ラグビー部に入部、大学ラグビーを始めた。慶應ラグビーは、一八九九年の創部。ラグビーを日本に最も早く導入したルーツ校である。四年前に創部百周年記念を挙行し、その年に慶應大学は「大学ラグビー選手権」に優勝した。慶應ラグビー部は、歴史と伝統に輝く存在であるのだ。

A・Bブロック制時代

私が入学した昭和三十五年も、慶應大学ラグビーは、当時A・Bブロック制の関東大学Aブロックでの優勝候補の筆頭であった。私は一年生から時々試合に出してもらっていたが、昭和三十五年のシーズンを終えたら最下位、即Bブロックに転落した。
一年間我々は猛練習した。そのお蔭で翌年Aブロックに復帰した。我々が復帰した年にBへ落ちたのは早稲田であった。しかし、早稲田もさるもの、一年後Aブロックに返り咲いた。その年にBへ落ちたのは明治だった。明治がBブロックに落ちた時に、A・Bブロック制が廃止になった。

連戦連勝の同志社を破る

私が四年生で主将を務めた時は、同志社大学が全盛期だった。同志社は二年目の日本国内選手権全勝をめざし破竹の進撃中であった。私が三年生の時も同志社は日本国内全勝、翌年私が四年生の時も全勝のはずの同志社を、昭和三十九年一月八日、シーズン棹尾を飾る恒例の慶應・同志社定期戦で、我が慶應ラグビーは十二対十一、一点差で連戦連勝中の同志社を打ち破ったのである。まさか、慶應が勝つはずもないという下馬評を覆した勝利で、それだけが取り柄として後世に残るのが当時の我々のチームであった。
ラグビーは、番狂わせがない。ほぼ実力通りに勝敗が決まる。この時は、神風に乗ったのか、大学生活最後の試合を飾れて、ほんとうにラッキーだった。

天は人の上に人をつくらず・・・
次は、嬉しい、楽しい、苦しい思い出である。慶應義塾は思想的にも進歩的で、福澤諭吉先生の教えにもあるように、新しいものをどんどん取り入れてゆく「進取の精神」に満ちていた。                 
私は当時、「李」という名前で中国籍であった。その私が慶應ラグビーの主将になれたのは、慶應義塾の「天は、人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」の精神、スポーツは国籍にこだわらないという考えを如実に現わしている。

2003年12月号

『タイガー ジャージ』(2)

ケガと闘い グラウンドに復帰

ラグビーにケガはつきもの。
例に漏れず私も一年生で首を捻挫。頭を蹴られて裂傷出血、麻酔なしで五センチ縫った。一年生の時、出場した東大戦では靭帯と半月板を損傷。手術で半月板をとり、靭帯を縫い一ヶ月程入院した。走れない私は練習に参加できず、落ち込んで退部まで考えた。しかし、仲間の励ましで二年生秋から練習に復帰した。                     

ピョコタン、ピョコタンと不細工な格好で走ろうと努める私に、兵庫高校のOBで高橋正昭という当時の監督が、棒で私の尻を叩きながら「まともに走れ走れ」と言いながら一緒に走ってくれた。手術した医師に、「回復は五分五分、将来はリュウマチになること保証付」と言われた私だが、今時点でリュウマチとは無縁である。

監督や仲間みんなの励ましで半年、リハビリを兼ねてピョコタンと走り続けて練習し、地獄の夏合宿もこなして、シーズンに入って試合に出してもらった。棒でたたかれても走れたのは、監督が、たまたま高校の先輩で、目をかけてくれたお蔭ではなかっただろうか。四年生では練習試合で右鎖骨を折って二試合出られなかった。しかし、現役に復帰できたのである。

ケガは多かったが、一つのポジションに四人の控え選手がいるから、競争原理で取り合いになる。ケガしたら、次のヤツに出番が回る。そういう時代だったな。一軍選手が他校チームと試合する以前に、自校のチームの中で勝たなければならず、ケガをすると、もう試合に出られない現実が待っていた。

 「坊ちゃん校」が猛練習

私が入部した時、さすが優勝候補と言われるだけあってラグビー部員は百名以上、慶応高校出身と地方出身が半々だった。慶応は「坊ちゃん学校」だが、あにはからんや、先輩は「お前ら、技倆も体力もとんでもなく下手だ。他校より二倍、三倍練習しないと勝てねぇぞ」と言う。
ではどうすれば勝てるか。「(他校の)倍以上練習しろ―」放課後三時くらいから夕方まで、時には真っ暗になるまで、猛練習、猛練習の連続で、時間も長く、内容もきつい練習でしごかれた。無論ラグビーは楽な練習で勝てるスポーツではないが、慶応という世間のイメージに程遠い、こんなに泥くさいチームだとは夢にも思わなかった。

「もてたい」夢砕く新人鍛錬

高校卒業直後は、こんなしんどい、汚い運動はやめだ。大学に入ったら、絶対にラグビーはすまい、と思いながら、私が慶応の「タイガー ジャージ」に憧れたのは、慶応ラグビーは、カッコいいから、女の子にもてるという一念が心の底にあったのかもしれないが―。

我々一年生二十人はチームを組んで、いつも上級生の練習台を務めさせられた。上級生は、どんどんメンバーチェンジして、新しいメンバーに替わって対戦する。しかし、我々一年坊主の新人は最初から最後まで連続して試合に付き合わされた。鍛錬かもしれないが、終わっても我々は「たるんでる!」と言われてグラウンド回しされたり、タックル練習をさせられたり、別な方法でしごかれた。えらいチームに入ったな、と思ったものだが、チーム力は保たれた。

2004年1月号

『タイガー ジャージ』(3)(最終回)

一年生に、上級生の雑用をさせない
私は、慶應義塾の体育系の特色に、上下関係は非常に厳しいが、「自分のことは自分でする」精神が厳然とあったことを、尊いものと今も思い返している。四年生の上級生でも、自分のユニフォームは自分で洗濯していた。他校では、一年生がそれを全部しなければならない中で、慶應はそういうことがなく民主的だった。練習のしごきは仕方ないが、私的雑用にこき使われることなく、猛練習のお蔭で、一年生は早く体力をつけて、上級生と対抗試合ができるようになった。私は体格的に大きくて、時々試合に出してもらった。

地獄絵の「夏合宿」と富士山伏流水
八月の夏休み、山中湖の慶應山荘での約二週間の「夏合宿」は地獄絵と言われる厳しさだ。極限まで走り込み、当たり、散らし等の練習を通じて、徹底的に体力をつけてゆく。「地獄」と言いたくなる合宿だが、今となれば地獄絵も、青春を燃焼し尽くした心地よい思い出になる。
その地獄でのただ一つ、練習後、「慶應山中山荘」に戻り、水道から出る氷水のような清冽な水に、当時流行った「渡辺のジュースの素」を溶かし、ぐっと飲むのがなんと嬉しかったことか。富士山の伏流水が非常においしくて、冷たかった。あれは救いだった。一年坊主の新人が、そういう経験を経て体をつくり、精神的にも鍛えられて、秋のシーズンに備えたものである。

ラグビーの素晴らしさ
慶應っておもしろい学校で、私が入った頃、慶應義塾元塾長でテニス部出身の小泉信三先生が「練習は不可能を可能にする」という言葉を全体育会に贈られた。だからラグビー部は、百メートル十三秒と、走りが遅い選手も、練習すれば十二秒を切ることもできると、不可能を可能にする練習を続けた。
ラグビーを表現する素晴らしい言葉は多い。「花となるより、根となれ」。アレクサンドル・デュマ作「三銃士」の冒頭の「国王はみんなのために。みんなは国王のために」から「One for All. All for One. ワン・ フォ・オール・オール・フォ・ワン」が生まれた。
昔から、「ラグビーというスポーツは、少年を一番早く男にして、男に永遠の少年の魂を抱かせるものである」と言われているが、若きラガーの多くが、白髪まじりの年齢に達しても、ラグビーに見果てぬ恋をして、仲間と会う度に、青春の血をたぎらせたあの熱い時代に、あっという間にタイムスリップするのである。(終り)

中神様、楽しいお話ありがとうございました。次号からは堀切民善氏(昭29経)の連載が始まります。ご期待ください。
(編集部)