連載 社中の心

シリーズ第9弾

砂野 耕一
(昭和28年 経)
2005年2月号~連載中

第1話
『若き血』の思い出(1)
第2話
建学の精神『独立自尊』
第3話
建学の精神『独立自尊』(2)
第4話
『私の教育論』

2005年2月号

『若き血』の思い出(1)

私が塾を卒業し川崎重工業の神戸本社に入社したのは昭和二十八年です。帰郷すると早速、神戸慶應倶楽部に入会しました。当時は海運業、貿易業、金融業をはじめ各界でご活躍の皆さんを中心に喧々諤々神戸の発展、日本の復興そして欧米各国の動向など話題は世界に及び倶楽部へ行くのが楽しみでした。

六大学野球の慶早戦の時には、倶楽部でラジオの前に集まり一杯飲みながらの応援で盛り上がり、ゲームが終ると三宮に繰り出して「若き血」を声高らかに歌ったものです。
慶早戦は明治三十九年に始まり、爾来両校は応援合戦に凌ぎを削ってきました。明治四十年に作られた早稲田の名校歌「都の西北」に対して、当時の慶應の応援歌は「天は晴れたり気は澄みぬ、ドンドン」と太鼓をひっぱたく歌でいくら声を張り上げても歯が立ちません。

塾生の間から新しい応援歌が欲しいという声が大きくなり、堀内敬三さんに作詞作曲をお願いすることになりました。

堀内さんは「都の西北」に勝てる応援歌という条件を聞き入れられて「都の西北」とは全く違う発想でテンポの速い曲をまず作られました。

作詞も大正デモクラシーの影響で「哲学する者」とか「思索する者」という言葉が流行っていたので、先ず「若き血に燃ゆる者」という文句が出てきて、あとは力強い言葉を連ねて一番だけで繰り返し歌えるように「陸の王者、慶應、タンタン」で終る詩を完成されました。この詩は北原白秋にも賞められた素晴らしいもので、昭和二年十一月の慶早戦で初めて披露されることになりました。

この応援歌は試合の二週間前に完成しましたが、テンポの速い歌の指導が出来る部員が応援指導部にいなかったので、当時普通部三年生で非常に歌が上手と評判の藤山一郎さんが選ばれました。若き日の藤山一郎さんと先輩方の熱意により昭和二年の慶早戦で早稲田に完勝したのです。そして、これは縁起が良い歌だということでラジオに乗って全国に拡まったというお話を伺ったことを想い起こします。

若き血に 燃ゆる者
光輝みてる 我等
希望の明星 仰ぎてここに
勝利に進む我が力 常に新し
見よ精鋭の集うところ
烈日の意気 高らかに
遮る雲なきを
慶應 慶應 陸の王者 慶應

(続く )

2005年3月号

建学の精神『独立自尊』

一八五三年、ペリーが米国大統領の国書を携えて浦賀に入港して以来、翌一八五四年に日米和親条約、一八五八年には通商条約が締結され、一八六〇年に日米修好条約批准書交換のためわが国から米国へ使節団が派遣されることになりました。この使節団の警護と外航訓練を兼ね、軍艦咸臨丸が出航しましたが、福澤先生は咸臨丸の司令官の従者を志願して乗組み、渡米されたのです。

先生は二十六歳で異国の地を踏まれたのですが、ここで先生の生い立ちと若き日のご努力を振り返ってみますと、一八三五年誕生、翌年父君を亡くされ、豊前中津で貧しい生活を余儀なくされました。頭脳明晰で勉学への意欲が強く、二十歳の時長崎で蘭学を学び、翌年大阪の緒方洪庵の適塾に進まれました。その実力が認められ、二十三歳で塾長を務められたのですが、藩命により二十四歳のとき上京され、公務のかたわら藩屋敷の中で蘭学塾を開かれました。これが慶應義塾の始まりです。

咸臨丸での渡米以来、一八六二年に、幕府が先に締結した欧米五ヶ国との通商条約の改正交渉のために、欧州に派遣した使節団に随員として参加され、さらに、一八六七年に幕府の軍艦受取委員の随員として再度訪米されました。このような機会に先生は欧米先進諸国の制度、文物の視察、調査に当たられ、わが国の政治、文化、社会に係わるシステムの近代化について考察を加えられたのです。

このように、わが国が鎖国から開国に向って進む中で、一八六七年に大政奉還が行なわれ、一八七一年に明治政府が成立しました。その翌一八七二年に福澤先生は「学問のすヽめ」を刊行され、明治政府の進めようとしている国政の方向に対し警告を出されました。先生三十八歳の時です。

その第一は、このまま進めば、わが国は民権軽視、官僚支配の国になる。第二は、外国の影響や脅威にさらされ、外国の侵略を受けかねないというものです。つまり官僚支配の「大きな政府」の国、自国の安全保障を維持出来ない国になるということなのです。

さらに、福澤先生は『わが国がこのような状態に陥るのを防ぐためには、国民の知識水準を上げなければならない。そのためには、人々が自ら進んで学問しようという動機が必要である。その動機とは、自分の家や自分の国を誰の世話にもならず、誰からも侵されることのない家や国にしたいという強い願望「独立の精神」が必要であり、自分の家や自分の国を自ら尊いと思える家や国にしたいという強い願望「自尊の精神」が必要である』と述べられています。

激動する二十一世紀の国際社会の中で、日本の将来を背負って立つ人材の育成を「独立自尊」の精神に立ち返り、考えることが急務であると実感しています。

2005年4月号

建学の精神『独立自尊』(3)

福澤先生が「学問のすヽめ」を刊行されてから百三十余年の歳月が流れました。日本は第二次世界大戦後、日米安全保障条約のもと画期的な経済成長を遂げ世界第二の経済大国にまで成長しましたが、「大きな政府」によって生じてきた課題は山積しています。また戦後の教育は、民主主義教育の名のもとに日教組がイデオロギー教育を現場に持込み、占領政策に副う形で日本を悪とする価値観を教え、自助努力や責任、義務の大切なことはあまり教えてきませんでした。

中学生の生活と意識について、(財)一ツ橋文芸振興会と(財)日本青少年研究所が、二〇〇一年十月から半年をかけて、日本・米国・中国の各国で中学校を地域分布を考慮して全国から十二~十六校選び、各国千~千三百人の中学生から「別表」の項目の他、将来の夢・学校の成績・規範意識や悩みなど多岐に亘る調査を行ないました。その中から別表の項目について調べた結果の報告をご紹介します。

「国家目標」では、日本の場合民主主義のもとで国民が幸福な生活を送るためには、国民一人一人が自分の国に誇りを持ち、国際社会で信頼される国になるために努力しなければならないことについて、子供たちの関心が薄いことが表れています。
「人生目標」についても、社会において責任ある立場に立って、世のため人のため役立つよう努力するという向上心が、米国・中国に比べて大変低いことが分ります。

そして「自己評価」では、両国と比べて日本は極端な自信喪失と責任感の欠落が見られ、危機的な心理状態にあると言えます。

これはひとり学校教育の問題ではなく、今日の日本社会の所産であり、その責任は日本社会全体で負わねばなりません。
「独立自尊」の四文字に象徴される国家社会発展の正しい在り方についての目標は、現在の日本において益々重要性を増してきていることを自覚し、義塾社中はその先導者たるべく努力をつづけていかねばなりません。

[別表]中学生の生活と意識に対する調査からの抜粋

項目  
国家目標 外国が信頼し援助・助言を求める
国軍備等国力が強く他国に侮られぬ
国社会的に安定し不安のない国
国民の生活が経済的に豊かな国
26
25
12
12
25 6
2.6
37
35
人生目標 高い地位につき大きな責任を果たす
社会のために役立つ生き方をする
49
44
36
44
12
32
自己評価 自分は積極的な人間
自分に起こったことは自分の責任
計画を立てたらやりとげる自信
自分に満足している
自分は多くの良い性質を持つ
自分は人並みの能力がある
35
60
54
53
50
57
22
47
33
24
49
49
11
25
10
9
6
16

2005年5月号

『私の教育論』

 第二次世界大戦後、世界は冷戦時代に入り緊張した状態が続きましたが、その中で自国の教育政策を見直す動きが出てきました。

 一九六〇年代から七〇年代にかけて、欧米各国では子供は善なるものだから、自由にしておけば新しい可能性が育つと考え、教育現場から様々な規制をなくしました。その結果欧米の学校では、現在日本が体験しているよりももっと凄まじい混乱が始り、学力の低下、校内暴力、犯罪などが多発したのです。

 しかし、一九八〇年代に入り、社会全体に猛烈な反省が起りました。米国ではレーガン政権、英国ではサッチャー政権の時代に入り、両国とも教育政策を見直し勇気をもって色々な障害を排除して成果を得たのです。
 現在、日本では個性を伸ばすという方針のもと「ゆとり教育」の充実を図ろうとしておりますが、米国、英国の経験に学び、早急に義務教育の根本的改革に取組まねばなりません。そして、子供たちが日本人であることに誇りを持ち、世界中の人たちと自信を持って協力し競争していくことができるような国にしていかねばなりません

 最後になりましたが、私の「教育論」を申し上げて会報投稿の責任を果たさせて頂きます。
『教育とは人間を育てる肥料である。教育と肥料の違いは肥料は単なる物質であるが、教育は人間によって人間を育てるものであり、人格を通じて行うものである。従って、人格が存在しないで行われるある種の教育は単なる知識の切り売りに過ぎない。
肥料を施す対象となる人間をどう見るか。

人間はその育った環境あるいは遺伝等によって色々な個性を持った人が育つ。字が読めなくても、道徳の片鱗を学ばなくても、善人の一団があり、また最高の教育の受けた人々のなかにも、本質的に悪人の一団がある。そして残りの大部分の人々は灰色の中間色であり、自らを取巻く環境によって、ある時期には灰色が黒さを増し、ある時期には白さを増す。これが私の人間観である。

このような観点に立って人間に対する教育のあるべき姿を考えないと所期の目的は達せられないし、平和な明るい社会を創りだすことは不可能である。

教育には大体三つの種類、即ち体育、徳育、知育がある。体育、徳育のような肥料は植物の成長期に施す窒素肥料であり、幼年期、少年期という肉体の成長期に施さなければその成果は乏しい。とくに徳育はむしろ、胎児の時から始まると云って良い。体育にしても中学高校時代を過ぎればその成果は著しく減殺されるが、知育は学生時代から社会人となっても年齢に影響されることが少なくその有効期間は長い。果実を結ぶ加里肥料のような性質を持っている。

この様にいずれの種類の教育でもその施肥の在り方、分量、時期を考えて有効に作用するよう努力しなければならない。たとえば、スポーツや趣味の同好会への参加など集団的行動の中で「人のふり見て、わがふりを直す」式の行動を通じ、自然に体得させる方法を見つければどの教育も人間の一生を通じて有効に作用するものである。そしてこの世に生を受けたことを感謝するとともに、常に自省自戒し努力を続けて行くことが大事である。』

会員の皆さんの、益々のご健勝とご健康を心からお祈り申し上げます。